2012年1月30日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章19節

 
私はキリストと共に十字架につけられています。
(「ガラテアの信徒への手紙」219節)
  
 
キリストは律法の主です。
キリスト御自身が十字架につけられ、死んで律法から離脱されたからです。
私も律法の主です。
私もキリストと共に十字架につけられ、死んで律法から離脱しているからです。
何によってそうなっているのでしょうか?
恵みと信仰によってです。
私が信仰において十字架につけられ、死んで律法から離脱するとき、
律法は、キリストに対してと同様、私に対しても一切の権利を失いました。
キリスト御自身が十字架につけられ、罪や死や悪魔から離脱されたので、
それらはもうキリストに対して何の権利もありません。
それと同様に、
私も霊において信仰を通しキリストと共に十字架につけられるとき、
死や罪や悪魔から離脱するので、
それらはもう私に対して何の権利もないことになります。
それらは私から離れて十字架につけられ、死んでいます。
しかし、パウロがここで言いたいのは、
「キリストに従う」すなわち「模範に倣う」ことではありません
「キリストの模範に従う」ことは、
キリストと共に十字架につけられることであり、
これは肉(すなわち身体)が十字架につけられることです。
これについてペテロは、
「キリストもあなたがたのために苦しまれ、あなたがたに模範を残されました。
それは、あなたがたがこの方の御跡に従うようになるためです」、
と言っています(「ペテロの第一の手紙」221節)。
パウロが「ガラテア書」のこの箇所で語っているのは、
それよりもはるかに高所にある十字架につけられることです。
ここでは、罪と悪魔と死が十字架につけられています。
ただし、それはキリストにおいてであり、私においてではありません。
これらすべてのことをキリストお一人がなさいます。
信仰者として私はキリストと共に十字架につけられています。
それは、
罪や悪魔や死が私の中でも死んで十字架にかかっているようになるためです。

2012年1月26日木曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書16章16節

 
しばらくすれば、あなたがたはもう私を見なくなります。
しかし、
またしばらくすれば、私に会えます。
(「ヨハネによる福音書」1616節)

 
あなたは自分の「しばらくの時」が必要です。
その時、
あなたは忍耐強くあらねばなりません。
キリストは隠れて退かれ、
あなたが罪や死や地獄の手中に陥るのを許されるからです。
その時には、
良心が平安を得るために何をやろうと、
あなたの心は動揺するばかりです。
キリストが消え去り、死なれたからです。
その時、
「しばらくすると、あなたがたはもはや私を見なくなります」、
という賛美歌をあなたは耳にします。
その時、
あなたはどこに逃げるのですか?
慰めも助けも存在しないのです。
しかも、あなたは罪や死や地獄の只中に座しているのです!
 
もしキリストが、
あなたの功績とは無関係に、
あなたのもとに直ちに来てくださらなければ、
あなたは永遠にこのような苦しみや恐れの中に
うずくまっているほかないでしょう。
もしキリストが
復活して弟子たちに顕現されなかったら、
弟子たちも体たらくのままだったでしょう。
だからこそ、
イエス様が死者の中から復活する必要があったのです。
  
人は皆、
この世からの別離の時に、(遅くとも)死の床で、
この苦しみを体験しなければなりません。
私たちは、
福音のゆえに火に投げ入れられ、
騒乱の張本人扱いされる時に、
この御言葉の効能を知ります。
心が強められていなければ、試練に耐えられません。
死の患いと恐ろしさを目の当たりにするからです。
どこに逃げられるでしょう?
 
もしキリストが来ないで、その手を退けられるなら、
私たちは滅びます。
しかし、もしキリストが私たちを助けるために来られるなら、
肉(身体のこと)は確かに死にますが、
魂には何の危害も及びません。
キリストがそれを支配なさっているからです。
この支配の中で魂は安全に保管されていて、
それをキリストの手から奪い去る者はいないからです
(「ヨハネによる福音書」1028節)。
 
 

2012年1月23日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙7章4節

 
私の兄弟たちよ、
このように、あなたがたも、
キリストの体を通して、律法に対して死んだのです。
それは、
あなたがたが他の人、すなわち、
死者の中からよみがえられた方に属する者になり、
こうして、私たちが神様のために実を結ぶようになるためなのです。
(「ローマの信徒への手紙」74節)
 
  
この御言葉を口にするのは簡単ですが、
良心の呵責に悩まされている最中でも
それを正しく理解する者はさいわいです。
その人は、
罪が襲いかかり、律法が責め立て、恐怖に陥れようとするときに、
次のように言うことでしょう、
「律法よ、
お前は私を責め立て、
私が多くの罪過を犯したと証言しているが、
それが私に何の関係があろうか?
私は今でも毎日たくさん罪を犯しているが、
その事実が私を動揺させることはない。
あたかも自分の耳が聞こえない者であるかのように、
私にはお前の話は聞こえないのだ。
お前は耳の聞こえない者に語っているわけだ。
私はお前に対してすでに死んでいる。
もしもお前がどうしても罪について私と討論したいというのなら、
私の肉体や僕たちに触れてみるがよい。
それらに対して教えをたれ、訓練し、十字架につけるがよい。
ただし、私自身や良心を悩ませるな。
私自身はお前とは何の係わり合いもないからだ。
私はすでに死んでお前から分離しており、
今はキリストに対して活きているからだ。
この方の御許で私は、もうひとつの律法、
すなわち、罪と律法を支配している恵みの律法の下にいる。
何を通してそうなっているかと言えば、
キリストへの信仰を通してなのだ。
パウロが示している通りに」。
 

2012年1月18日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章19節

 
私は神様に対して活きるために、
律法によって律法に対して死にました。
私はキリストと共に十字架につけられました。
(「ガラテアの信徒への手紙」219節)
  
   
パウロはこう言っているかのようです、
「モーセの律法は私を責め、裁きます。
しかし、
この責め裁く律法に対抗するもうひとつの「律法」が私にはあります。
それは、恵みと自由です。
この「律法」は責める律法を責め、裁く律法を裁きます」。
 
ここでのパウロは
まるで前代未聞の最悪の異端者であるかのように振舞っています。
なぜなら、パウロは、
「律法に対して死んだ者は神様に対して活きている」、
と言っているからです。
 
偽使徒たちは次のように教えました、
「もしも律法に対して生きないならば、お前は神様に対して死んでいるのだ。
もしも律法に従って生きないならば、お前は神様の御前で死んでいるのだ」。
 
ところが、パウロはそれとはまったく正反対に、
「もしも律法に対して死んでいるのでなければ、
あなたは神様に対して活きることはありえません」、
と教えます。
 
私たちは、
自分が律法よりもはるか高いところにいることが確認できるほど、
さらには、自分が律法に対して完全に死んでしまっているほど、
天の高みへと上らなければなりません。
 
ところで、
もしも私たちが律法に対して死んでいるのなら、
律法は私たちに対してもはや何の権利も有してはいません。
それはちょうど、
私たちが神様に対して活きるようになるために
私たちを律法からあがなってくださったキリストに対して、
律法には何の権利もないのと同じです。
 
この意味は、
「私たちは律法によって義とされるのではなく、
キリストへの信仰によってのみ義とされる」、
ということです。
 
(「義とされる」というのは、
神様に受け入れていただけるのにふさわしい存在になる、
という意味です。訳者註)
  

2012年1月16日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章18節

 
もしも私が自分でこわしたものを再び建てるとすれば、
私は自分が違反者であることを示すことになります。
(「ガラテアの信徒への手紙」218節)
 
  
私は福音の説教によって律法を滅ぼしました。
それは、律法がもはや良心を支配しないためです。
なぜなら、
新しい住人なるキリストが、
おひとりで住まわれるために新しい部屋へと引越して来られたので、
古い住人なるモーセは、そこから退いて、
他のところへと引っ越さなければならないからです。
しかし、
新しい住人なるキリストがおられるところには、
律法も罪も怒りも死もありません。
そこにあるのは、恵みと義と喜びと命のみであり、
キリストのゆえに怒りを鎮めてくださった、
憐れみ深く恵みに満ちたお父様のもとへと避けどころを求める
子供の心があるだけです。
私は今
キリストを追い払って、
私が福音によって植えたキリストの王国を滅ぼし、
再び律法に権力を与え、
モーセの王国を再建するべきでしょうか?
もしも私が偽使徒どものように
「割礼[1]と律法の遵守は救われるために不可欠である」
と教えるならば、そうなってしまうでしょう。
そして、
私は義や命の代わりに罪や死を再びもちだすことになるでしょう。
律法は罪のみを示し、怒りと死をもたらすものだからです。
 

[1] 生まれて8日目に男の赤ちゃんの性器の包皮の一部を切り取る、
ユダヤ人の儀式のこと。