2012年1月18日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章19節

 
私は神様に対して活きるために、
律法によって律法に対して死にました。
私はキリストと共に十字架につけられました。
(「ガラテアの信徒への手紙」219節)
  
   
パウロはこう言っているかのようです、
「モーセの律法は私を責め、裁きます。
しかし、
この責め裁く律法に対抗するもうひとつの「律法」が私にはあります。
それは、恵みと自由です。
この「律法」は責める律法を責め、裁く律法を裁きます」。
 
ここでのパウロは
まるで前代未聞の最悪の異端者であるかのように振舞っています。
なぜなら、パウロは、
「律法に対して死んだ者は神様に対して活きている」、
と言っているからです。
 
偽使徒たちは次のように教えました、
「もしも律法に対して生きないならば、お前は神様に対して死んでいるのだ。
もしも律法に従って生きないならば、お前は神様の御前で死んでいるのだ」。
 
ところが、パウロはそれとはまったく正反対に、
「もしも律法に対して死んでいるのでなければ、
あなたは神様に対して活きることはありえません」、
と教えます。
 
私たちは、
自分が律法よりもはるか高いところにいることが確認できるほど、
さらには、自分が律法に対して完全に死んでしまっているほど、
天の高みへと上らなければなりません。
 
ところで、
もしも私たちが律法に対して死んでいるのなら、
律法は私たちに対してもはや何の権利も有してはいません。
それはちょうど、
私たちが神様に対して活きるようになるために
私たちを律法からあがなってくださったキリストに対して、
律法には何の権利もないのと同じです。
 
この意味は、
「私たちは律法によって義とされるのではなく、
キリストへの信仰によってのみ義とされる」、
ということです。
 
(「義とされる」というのは、
神様に受け入れていただけるのにふさわしい存在になる、
という意味です。訳者註)