私は神様に対して活きるために、
律法によって律法に対して死にました。
私はキリストと共に十字架につけられました。
(「ガラテアの信徒への手紙」2章19節)
パウロはこう言っているかのようです、
「モーセの律法は私を責め、裁きます。
しかし、
この責め裁く律法に対抗するもうひとつの「律法」が私にはあります。
この責め裁く律法に対抗するもうひとつの「律法」が私にはあります。
それは、恵みと自由です。
この「律法」は責める律法を責め、裁く律法を裁きます」。
ここでのパウロは
まるで前代未聞の最悪の異端者であるかのように振舞っています。
なぜなら、パウロは、
「律法に対して死んだ者は神様に対して活きている」、
と言っているからです。
偽使徒たちは次のように教えました、
「もしも律法に対して生きないならば、お前は神様に対して死んでいるのだ。
もしも律法に従って生きないならば、お前は神様の御前で死んでいるのだ」。
ところが、パウロはそれとはまったく正反対に、
「もしも律法に対して死んでいるのでなければ、
あなたは神様に対して活きることはありえません」、
と教えます。
私たちは、
自分が律法よりもはるか高いところにいることが確認できるほど、
さらには、自分が律法に対して完全に死んでしまっているほど、
天の高みへと上らなければなりません。
ところで、
もしも私たちが律法に対して死んでいるのなら、
律法は私たちに対してもはや何の権利も有してはいません。
それはちょうど、
私たちが神様に対して活きるようになるために
私たちを律法からあがなってくださったキリストに対して、
律法には何の権利もないのと同じです。
この意味は、
「私たちは律法によって義とされるのではなく、
キリストへの信仰によってのみ義とされる」、
ということです。
(「義とされる」というのは、
神様に受け入れていただけるのにふさわしい存在になる、
という意味です。訳者註)