2020年5月29日金曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」2章11節「主は私たちを恥じられない」

「主は私たちを恥じられない」

実に、きよめる方もきよめられる者たちも皆ひとりの方から出ています。
それゆえに、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされません。
(「ヘブライの信徒への手紙」211節)

イエス様がどのように私たちのことを天の御父に紹介してくださっているか、
見てごらんなさい。
「これらの人たちは私の兄弟姉妹です」とイエス様は言っておられます。
「これらの人たち」とは誰のことかを考えてみるとき、
それが実は私たちのことであると思い至って、私たちは驚いてしまいます。

どうしてこのようなことがありえるのでしょうか。
イエス様は人の心の中を知悉しておられました。
イエス様は人々から迫害を受けました。
また弟子たちはイエス様を見捨てました。
イエス様を知らないと嘘をつく者や裏切る者もいました。
私たち人間がどのような存在であるか、イエス様はよく御存知でした。
 
私たちは自らの汚れた口や悪い心を悲しむべきなのに、
イエス様は私たちのことを「聖なる兄弟姉妹」と呼んでくださるのです。
私たちが聖い者であると同時に罪深い者でもあるということが、
どうして可能なのでしょうか。

その答えはひとつだけです。
キリストの御業のゆえに神様は私たちを義とみなしてくださるということです。
「神様は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪となさいました。
それは、私たちがこの方のうちにあって神様の義となるためなのです」
(「コリントの信徒への第二の手紙」521節)。

私たちがまだ自らの罪過と罪の中に閉じ込められて
(信仰的な意味で)死んだ状態にあったときに、
神様はこの救いの御業を成し遂げられました。
すべての人の贖罪のためにイエス様が犠牲となって死んでくださったおかげで、
本来なら聖なる神様に受け入れていただけるはずのない罪人を
神様は義とみなしてくださるのです。
人は信仰を通してこの賜物としての義を受け入れ
自分のものとして心を新たにされます。

このようにして聖なる者とみなされた私たちは、
イエス様がためらうことなく「わが兄弟姉妹よ!」
と呼びかけてくださる存在になります。
イエス様は私たちをしみもしわもまったくない者にして
天の父の御前に導いてくださいます。
 
(祈り)私はイエス様と同じ天の御国、父なる神様をいただいています。
そして、それで十分です。
この他にまだ何か望むものがありえましょうか。アーメン。
(関連聖句)「マタイによる福音書」124650

2020年5月22日金曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」2章3節より「逃げ道はない」

「逃げ道はない」

私たちはこれほど大いなる救いをなおざりにした場合に
どうして逃げおおせることができましょうか。
(「ヘブライの信徒への手紙」23節より)

本当に、逃げ道などはありません。

罪深い存在である人間の救いは、
他の何ものにも代えられないきわめて切実なことです。
救いとは、
罪から、すなわち私たちの腐敗した状態から助け出されることです。
救いとは、
私たち人間が神様の義なる怒りを免れて、
永遠に続く滅びや苦しみから解放されることです。
救いとは、
(悪魔などによる)隷属状態から自由にされて、
光と平和と義と命の中へ入れていただくことです。

神様のひとり子イエス様こそが唯一の救い主です。
イエス様は律法を全うして、罪のすべての罰を引き受けて苦しまれました。
よりはっきり言うならば、
私たちのためにイエス様は「罪そのもの」となってくださったのです。
神様の御子はあらゆる苦痛に耐え、
その身体を贖罪の犠牲としてささげ、
死と地獄の苦しみをお受けになりました。
このことによってイエス様が私たちのために確保し用意してくださった救いは、
それゆえに途方もなく偉大な御業なのです。

それは「偉大な御業」です。
なぜなら、それは私たち全員に関わりがあることだからです。
それは完全で、常に変わることなく、いつでも十分に有効なものです。
それは賜物として、まったくの恵みとして与えられます。

もしも私たちがこれほどまでに偉大な救いをなおざりにするなら、
そのために下される神様の裁きはどれほど厳しいものとなることでしょうか。
この救いを拒絶し続けた者に対しては、
天と地と地獄が声をそろえて
「逃げおおせることはできないぞ」と叫ぶ時がいつかやって来ます。
その人は神様の怒りの下に留め置かれ、滅びの裁きを受けることになり、
「だめだ、やはり逃げ切れない」と愚痴を言い続けることになります。

これほど大いなる救いを誰一人拒絶することにはなりませんように。
また、全員が罪を悔い改めて、
救い主を「我が主」として受け入れる信仰をもつようになりますように。

(祈り)恵みの御霊よ、私やすべての私の愛する人々に対して、
どうかこの偉大な救いをはっきりと示してください。アーメン。
(関連聖句)「テサロニケの第一の手紙」5110

2020年5月15日金曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」1章9節より「喜びの油」

「喜びの油」

神様、あなたの神様は喜びの油をあなたに注がれました。
(「ヘブライの信徒への手紙」19節より)

イエス様と喜びとは一体になっています。

たしかにイエス様は「痛みの人、病を知る人」(「イザヤ書」533節)
ですが、それでも
イエス様の御名には祝福された喜びの心が分かちがたく結びついています。

イエス様がこの世にお生まれになったのは
「すべての民にとっての大いなる喜び」(「ルカによる福音書」210節)
でした。

神様は喜びの油によってイエス様をその職務へと正式に任命なさいました。
「主なる神様の御霊が私に臨みました。
福音を宣べ伝えるために主が私に油を注がれたのです」
(「イザヤ書」611節より)とイエス様は言われました。

目が見えるようになったバルテマイ(「マルコによる福音書」104652節)や、
七つの悪霊から解放されたマグダラのマリア(「マルコによる福音書」169節)、
あるいは、
イエス様の御衣のふさにさわって癒された女(「ルカによる福音書」84348節)
に私たちが実際に会ったなら
「イエス様はその時代の人々にたくさんの喜びをもたらしてくださった」
と私たちは証言することでしょう。

福音が私たちの心を開くとき、私たちも祝福された喜びを体験します。

預言者イザヤは
「あなたがたは喜びをもって救いの井戸から水を汲むことになります」
(「イザヤ書」123節)と予言しました。

ゲッセマネの園へと向かう途中、
イエス様は感謝の賛美歌を口ずさんでおられました。

「私がこれらのことを話したのは、
私の喜びがあなたがたのうちにあって、
あなたがたの喜びが満ちあふれるためです」
(「ヨハネによる福音書」1511節)、
また
「今あなたがたは悲しんでいます。
しかし、私は再びあなたがたに会います。
そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。
その喜びをあなたがたから取り去る者はいません」
(「ヨハネによる福音書」1622節)
とイエス様は言っておられます。

救いの喜びは
移り変わる感情の中にではなく、
イエス様が備えてくださった救いの中にこそあります。
この喜びが私たちの力の源です。
この世での人生の旅が終わる時、
神様は私たちの目から涙をすっかり拭い去ってくださいます。

(祈り)イエス様、あなたは私の喜びです。
私がいつでもあなたにあって喜んでいられるように助けてください。
アーメン。
(関連聖句)「ヨハネによる福音書」15916

2020年5月8日金曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」1章3節より「真の姿」

「真の姿」

御子は神様の栄光の輝きであり、神様の本質[1]の真の姿[2]です。
(「ヘブライの信徒への手紙」13節より)

イエス様は神様の本質の真の姿です。
預言者たちは神様の御言葉を人々に告げ知らせました。
時が満ちて、
神様の御子は神様の輝く本質と栄光をはっきりと示してくださいました。

「ヘブライの信徒への手紙」の最初の数節は
神様の啓示の究極の輝きを描写しています。
神様はキリストを通して世界を造られました。
この同じキリストが自らの血によって、
全世界を罪から清める御業を成し遂げてくださいました。
キリストは力なる御言葉によって万物を保っておられる万物の継承者です。
キリストは歴史の始まる前に存在しておられましたし、
歴史の中にも存在しておられます。
そしてまた歴史を超えたお方でもあります。

虚偽が真理のふりを装うこの世で生きている私たちにとって、
上に述べたことは非常に大切です。
神様は私たちがそれを知らないままで放ってはおかれず、
御心のすべてをイエス様を通して私たちに明示してくださっているのです。
イエス様は神様御自身です。
全能なる神様の聖なる真理そのものです。

私たちはイエス様に信頼します。
私たちは恐れないし、迷ったりもしません。
私たちにはキリストがおられるからです。
神様はキリストを通して、
本当に失われた羊を探し求めてくださり、
罪深い者の救い主となり、
弱い者の力となってくださるのです。

(祈り)天の御父様、あなたがキリストを通して、
言葉では言い表せないほどの愛を私に告げ知らせてくださったことを感謝します。
キリストが私を罪と死と悪魔の支配とから救ってくださった主であることを
はっきり教えてくださり、感謝します。
(関連聖句)「ヘブライの信徒への手紙」118


[1] ギリシア語で、ヒュポスタシス。
[2] ギリシア語で、カラクテール。

2020年5月4日月曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」1章2節より「一番よくメッセージを伝えるには」

「一番よくメッセージを伝えるには」
 
この終わりの時に神様は御子によって私たちに語られました。
(「ヘブライの信徒への手紙」12節より)

1837年にサミュエル・モールスは電信機を発明しました。
彼が送信した最初のメッセージは「神は何を為し給しか?」でした。

現代における情報の伝達手段はそれとは格段に発展しています。
しかし残念なことに、
もはやモールスのように神様の偉大な御業について語られることはなくなり、
その代わりに
「我々人類が成し遂げた偉業を見よ!」というメッセージばかりが
語られるようになりました。

しかし、どれだけ進歩を偶像視したところで、
神様が御子イエス・キリストを通して
私たちにメッセージを送信してくださることを妨げることはできません。
神様の御言葉が肉(すなわち人)となった時、
神様の真理と愛が天の御国から人間の世界へと
二つの世界の隔たりを打ち破って流れ込んだからです。

御子を通して神様は私たちの罪がどれほど大きいかを示してくださいました。
しかし、それだけではありません。
なによりもまずイエス様は
罪深い者たち(すべての人間)に対する神様の愛を
最も明瞭に啓示してくださっています。
この神様の愛は、ゴルゴタの十字架によって
最悪の罪人に対してさえも罪の赦しを用意してくださるという形をとりました。
十字架を通して神様は
私たちひとりひとりに次のように話しかけておられるのです、
「御子を信じる者には永遠の命があります。
しかし、御子に従順でない者は命を見ることがなく、
神様の怒りがその人の上に留まります」(「ヨハネによる福音書」336節)。

天の御父様が私たちに対して
このようなメッセージを送信してくださったのですから、
私たちは信仰によってこう応答します、
「主は私たちの間で偉大な御業を行われました」(「詩篇」1263節)。

(祈り)私は主なる神様の語られることを聴きたいと願っています。
主は御自分の民に平和を語ってくださるからです。アーメン。
(関連聖句)「ヨハネによる福音書」1912