「主は私たちを恥じられない」
実に、きよめる方もきよめられる者たちも皆ひとりの方から出ています。
それゆえに、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされません。
(「ヘブライの信徒への手紙」2章11節)
イエス様がどのように私たちのことを天の御父に紹介してくださっているか、
見てごらんなさい。
「これらの人たちは私の兄弟姉妹です」とイエス様は言っておられます。
「これらの人たち」とは誰のことかを考えてみるとき、
それが実は私たちのことであると思い至って、私たちは驚いてしまいます。
どうしてこのようなことがありえるのでしょうか。
イエス様は人の心の中を知悉しておられました。
イエス様は人々から迫害を受けました。
また弟子たちはイエス様を見捨てました。
イエス様を知らないと嘘をつく者や裏切る者もいました。
私たち人間がどのような存在であるか、イエス様はよく御存知でした。
私たちは自らの汚れた口や悪い心を悲しむべきなのに、
イエス様は私たちのことを「聖なる兄弟姉妹」と呼んでくださるのです。
私たちが聖い者であると同時に罪深い者でもあるということが、
どうして可能なのでしょうか。
その答えはひとつだけです。
キリストの御業のゆえに神様は私たちを義とみなしてくださるということです。
「神様は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪となさいました。
それは、私たちがこの方のうちにあって神様の義となるためなのです」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章21節)。
私たちがまだ自らの罪過と罪の中に閉じ込められて
(信仰的な意味で)死んだ状態にあったときに、
神様はこの救いの御業を成し遂げられました。
すべての人の贖罪のためにイエス様が犠牲となって死んでくださったおかげで、
本来なら聖なる神様に受け入れていただけるはずのない罪人を
神様は義とみなしてくださるのです。
人は信仰を通してこの賜物としての義を受け入れ
自分のものとして心を新たにされます。
このようにして聖なる者とみなされた私たちは、
イエス様がためらうことなく「わが兄弟姉妹よ!」
と呼びかけてくださる存在になります。
イエス様は私たちをしみもしわもまったくない者にして
天の父の御前に導いてくださいます。
(祈り)私はイエス様と同じ天の御国、父なる神様をいただいています。
そして、それで十分です。
この他にまだ何か望むものがありえましょうか。アーメン。
(関連聖句)「マタイによる福音書」12章46~50節