「私の大きな罪」(その1)
罪の中に生きている者は、
洗礼によっていただいた恵みを失ってしまっています。
その人はクリスチャンではなく、異邦人です。
人の本性(自然)はあまりにも腐敗しているので、
正しく怒ることも正しく愛することもできません。
怒るときにも愛するときにも、
人の本性は自分のことや自分の利益ばかりを捜し求めます。
目はいつも耳をだめにします。
目に見えるものは、言葉や目に見えないものを斥けます。
ペテロが「来なさい」というイエス様の御言葉を聴いて
何も見ないでいる間は、
海の上を幸せに歩いていました。
ところが、風が波に吹き付けるのを見始めたときに、
ペテロは「来なさい」という御言葉を聴かなくなり、
海に沈み始めたのです
(「マタイによる福音書」14章22~33節)。
「主に道を備える」という洗礼者ヨハネの特別な任務は、
ヨハネが全世界(の住人)を(主の御前に)へりくだらせることでした。
彼らが皆罪人で滅ぶのが当然の者であり、
すでに裁かれている人々であるということ、
そして、もしも主キリストが彼らの中に住まわれ、
活きて働きかけ、信仰を通してすべてを行ってくださらなければ、
誰であれ人はどのような仕事や生活をし、
どのような社会的立場にあろうとも、
神様の裁きをまぬかれるほど聖くはないこと、
それゆえ、
彼らは皆等しく主イエス・キリストを必要としており、
心から望んで主の恵みにあずかるべきであることを、
彼らに告げることでした。