2012年6月28日木曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 私の大きな罪(その1)


 
「私の大きな罪」(その1)
  
 
罪の中に生きている者は、
洗礼によっていただいた恵みを失ってしまっています。
その人はクリスチャンではなく、異邦人です。
  
  
人の本性(自然)はあまりにも腐敗しているので、
正しく怒ることも正しく愛することもできません。
怒るときにも愛するときにも、
人の本性は自分のことや自分の利益ばかりを捜し求めます。
  
  
目はいつも耳をだめにします。
目に見えるものは、言葉や目に見えないものを斥けます。
ペテロが「来なさい」というイエス様の御言葉を聴いて
何も見ないでいる間は、
海の上を幸せに歩いていました。
ところが、風が波に吹き付けるのを見始めたときに、
ペテロは「来なさい」という御言葉を聴かなくなり、
海に沈み始めたのです
(「マタイによる福音書」142233節)。
   
  
「主に道を備える」という洗礼者ヨハネの特別な任務は、
ヨハネが全世界(の住人)を(主の御前に)へりくだらせることでした。
彼らが皆罪人で滅ぶのが当然の者であり、
すでに裁かれている人々であるということ、
そして、もしも主キリストが彼らの中に住まわれ、
活きて働きかけ、信仰を通してすべてを行ってくださらなければ、
誰であれ人はどのような仕事や生活をし、
どのような社会的立場にあろうとも、
神様の裁きをまぬかれるほど聖くはないこと、
それゆえ、
彼らは皆等しく主イエス・キリストを必要としており、
心から望んで主の恵みにあずかるべきであることを、
彼らに告げることでした。
  

2012年6月18日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 私は復活して、私の父の御許に行きます(ルカによる福音書15章18節)(その2)


私は復活して、私の父の御許に行きます
「ルカによる福音書」15章18節のルターの説明(その2)
  
 
自分の弱さと罪を知れば知るほど、
神様を畏れる人は
それだけ熱心に神様に叫び、祈ります。
罪の意識と恐れが止まないときには、
祈りも、神様に向けてため息をつくことも
止むことがないからです。
すでに恵みの意味を知っている信仰者が、
恵みを祈り求めるのは、どうしてでしょうか。
彼らは恵みについて何かを味わい、
理解することができました。
まさに恵みをこのように味わったことにより、
彼らはさらにもっと恵みを渇望するようになります。
心は、御霊の初穂をいただいたときに、
自らそれで満足することはなく、
さらに完全な御霊を求めるようになるからです。
   
 
私はあなたの御許に来ることができません。
それゆえ、私の神様、
立ち上がって、あなたが私のもとに来てください。
そして、私をあなたの御許に連れて行ってください。
ここで「立ち上がる」というのは、
「神様が人となられた」という、
最高に愛らしく恵みに満ちた出来事をさしています。
神様は、私たちを立ち上がらせるために、
私たちのもとにきてくださったのです。
そして神様は
御自分の民、シオンを憐れんでくださったのです。

2012年6月12日火曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 私は復活して、私の父の御許に行きます(ルカによる福音書15章18節)(その1)

 
私は復活して、私の父の御許に行きます
「ルカによる福音書」15章18節のルターの説明(その1)


自分の中には何もよいことを見出さない、
慰めのない魂の持ち主は、
実は、神様にとって最高のささげものなのです。
とりわけ、その人が神様の恵みを叫び求める時には。
神様が喜んで聴いてくださるのは、
人が神様の憐れみを渇望し、
神様に助けを叫び求めることだけだからです。
  
  
あなたは神様に叫び求めることを学ばなければなりません。
うなだれて座っていてはいけないのです。
あなたの考えや心配があなたをかき乱し引き回した挙句、
自分がどれほどつらい状態にあり、どんなに惨めな人間か、
ということしか見えなくなったりしないように。
それは怠け者の態度です。
ひざまずいて、目と手を天に向け、
詩篇か、主の祈りを祈りなさい。
神様の御前にあなたの今の苦しみを携えて行き、
泣いて、嘆いて、神様に助けを求めなさい!

2012年6月11日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 命の泉 (ヨハネによる福音書4章14節)(その2)


命の泉 
「ヨハネによる福音書」4章14節のルターの説明(その2)
  
   
聖書から、
キリストより少ないものを見いだした時にはいつも、
私の魂は満たされませんでした。
聖書から、
キリストよい多いものを見いだした時にはいつも、
私はかつてなかったほどに貧しくなりました。
ですから、私が確実に言えるのは、
神様の聖霊様は、
イエスキリスト、
しかも十字架につけられたイエスキリスト以外のことについては
何も知らないし、
また知りたいとも思われない、
ということです。
  
  
キリスト教の教えの最初の部分は、
心で罪を悔い己を知ることです。
教えの次の部分は、
「救いにあずかりたい人は、
救いは行ないによってはえられず、
私たちが御子において活きるために
神様が独り子を世に遣わされたおかげである、
と知ることです。
  
  
私は、聖書を研究することによって、学識を得て、
他の人に説教するほどまでになるかもしれませんが、
それは私自身を少しも助けてはくれません。
もしもキリストを見いださず知りもしないならば、
私は、救いも永遠の命も知らないままだからです。
そう、私は苦しい死を見いだすことになります。
人間は、
イエス様の御名以外の他の名によっては
決して救われることがないように、
愛する私たちの神様はお決めになったからです。
  
  
神様は、
私が傷ついているときには「軟膏」、
私が病気のときには「偉大な医者」、
私が貧しいときには「富」、
私が飢えているときには「命のパン」、
私が喉が渇いているときには「命の水」です。
神様は、
私が裸のときには私に服を着せてくださいます。
神様は、
私が暗闇の中にいるときに「私の太陽」、
私が揺らいでいるときに「私の岩」、
私が悩みで心が荒れ狂っているときに「私の静かな港」、
私が責められているときには「私の弁護者」です。
あらゆる状況において、
神様は私のすべての必要を満たしてくださいます。
 

2012年6月8日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 命の泉 (ヨハネによる福音書4章14節)(その1)

 
命の泉 (ヨハネによる福音書4章14節)(その1)


確かにあなたは、自分の罪のせいで倒れました。
しかし、それでもあなたは疑ってはなりません。
あなたを打ったお方は、
またあなたを助けることができるし、
また助けたいと望んでおられるからです。
ですから、
人の助けを求めたりせず、主なる神様の御許に来なさい。
神様は確かに、あなたをその罪の故に打たれました。
しかし、神様は
「あなたの神」であることを止められたわけではありません。
神様があなたを罰し、御言葉によって叱責なさる場合には、
背を向けたりせず、自分の顔を神様に向けなさい。
神様の御言葉にしっかりつかまり、
神様が命じられることをよく聴いて、神様に従いなさい。
そうすれば、
神様は怒りを鎮め、罰を緩めてくださるばかりか、
あなたの罪を赦し、あなたに永遠の宝を与えてくださいます。
  
  
私の助けと救いは主から来ます。
なぜでしょうか。
私は人間を
自分の避けどころや慰めや助けや救いとはしなかったからです。
かりにその人がどれほど偉大で富裕であったとしてもです。
私は人に心を委ねなかったし、期待もしませんでした。
私は、
すべての幸福と救いをもたらしてくださる神様に、
自分を委ねたのです。

2012年6月6日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 私は罪人です(ルカによる福音書5章8節)(その3)


私は罪人です
「ルカによる福音書」5章8節のルターの説明(その3)
 
  
自分の心配事を神様にお任せしなさい。
祈りつつ助けを求めながら、
神様の御許へと向かいなさい。
自分で心配することで得ようとしていたすべてのことを
神様が取りはからってくださるよう、
神様に祈りなさい。
あなたがたのことを世話してくださり、
あらゆる心配を引き受けてくださる
神様がいらっしゃることを感謝しなさい。
しかし、
このように行なわない者は、
自分の理性によって物事をはかり、
自分の考えによって物事を進めようとし、
心配事を自分で背負い込み、
自分を何重にも惨めな状態に追いやり、
神様の中の喜びと平和を失ってしまいます。
しかもその人は、
自分では何も成し遂げることができません。
それどころか、
砂の中に穴を掘って、
その中に深く落ち込んでいくばかりで、
そこから出ることもできません。

2012年6月4日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 私は罪人です(ルカによる福音書5章8節)(その2)


私は罪人です
「ルカによる福音書」5章8節のルターの説明(その2)
 
  
私たちが自分の欠点を知らなすぎることは、
とてもよくないことです。
もしも自分の欠点を自覚しているならば、
瞬間ごとに祈る切実な理由が
私たちにはあるはずです。
神様は、
聖なる御名によって
私たちに洗礼を授け、
名前を与え、
着飾り、
祝福してくださっています。
私たちは神様の本当の子どもです。
また私たちは、
神様の聖なる御名が(この世で)
ひどく侮辱されるのを目にしています。
しかし、
御名への侮辱に対して
はっきり反対の声を上げるクリスチャンが、
いったいどこにいますか。
私たちは、
自分がどれほど弱く
悪魔や肉に妨げられているか、
見てきているわけですから、
神様の御国が近づいてくださるよう、
日々祈るべき時は
すでに来ているのです。

2012年6月1日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 私は罪人です(ルカによる福音書5章8節)(その1)



 これからは、今から約60年前に
フィンランドのルーテル教会が若者向けに出版した
ルターの言葉のアンソロジーをおとどけします。
題して、「ルターの信仰生活アドヴァイス」。
翻訳編集 高木賢(フィンランドルーテル福音協会))


起き上がりなさい。主があなたをお呼びです!


私は罪人です
「ルカによる福音書」58節のルターの説明(その1)


自分が罪人だと認めない人は、
神様を嘘つきにし、自分を真理にしてしまいます。
これは大きな罪であり、神様を全くないがしろにした行いです。
  
  
福音は
賢い者を愚かな者にし、愚かな者を賢くします。
また、
「間違った信仰をもつ者」とあざけられる人を
クリスチャンとし、
自分がクリスチャンである、とおごり高ぶる者を
「間違った信仰をもつ者」にしてしまいます。


私たちクリスチャンひとりひとりの中には、
心の中に「意地の悪い修道僧」がいます。
それは、
自分の行いによって
自分を神様に受け入れさせようとする心であり、
自分の行いによって
自分を聖くしようとする心です。