2013年1月30日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あらゆる状況において感謝しなさい!(その2)


 
あらゆる状況において感謝しなさい!(その2)

 
 
もしも神様が、
ローマ法王や王侯やビショップや博士や
金持ちや商人や中産階級や農民のもとに来て、
「もしも私に10万グルデンをくれないなら、
あなたは今すぐ死ななければならないよ」、
と言ったとしたら、
きっと誰でも、
「それで私がまだ生きながらえることができるなら、
喜んでお金を差し上げます!」、
と答えることでしょう。
ところが、私たちは
感謝の気持ちのかけらさえ、持ち合わせてはいません。
そのひどさといったら、
神様が完全な善性と憐れみから、
あふれるように与えてくださる大いなる善きみわざでさえも、
私たちを感動させないほどなのです。
そして、私たちは、
「神様、私たちはあなたを賛美します!」、
と言おうともしません。
なんと恥ずべきことでしょう。
このような私たちに対して、
私たちの善き御父様は善いみわざを止めずに、
変わることなく与え続けてくださっているのです。
神様が御自分の賜物を分けるときに、
今よりも節約して少なめに配るなら、
きっと私たちは神様に対して
今よりもっと感謝の心をもつことでしょう。

2013年1月28日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あらゆる状況において感謝しなさい!(その1)


 
あらゆる状況において感謝しなさい!(その1)
  
 
畏敬しつつ神様に感謝する正しいやり方は、
キリストにあって、
キリストがあなたのもとに来られることを通し、
信仰によって
あなた自身が聖となっていることを
勇気をもって認めることです。
そして、
神様の救いの恵みと、あなたにしてくださったみわざとを
告白し、愛し、感謝することです。
さらに、
自分自身とそのすべての行いを
捨て、軽蔑し、呪い、自分自身にすっかり失望することです。
これが、キリスト信仰者である、ということです。
  
  
感謝は、祈りを勇気に満ちた力強いものにします。
それと同時に、
感謝は、祈りを軽くし、喜びに変え、愛らしいものにします。
それはちょうど、燃えている石炭がもくもく煙を立てるのと似ています。
なぜなら、
もしも心があらかじめ感謝の気持ちで燃えていなければ、
祈りは冷たく、のろく、重苦しいものになってしまうからです。

2013年1月25日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 真の謙虚さ(フィリピの信徒への手紙2章8節)(その2)


 
真の謙虚さ (「フィリピの信徒への手紙」28節)(その2) 
 
 
私を謙虚にし、
自分が取るに足らない存在であることを教えてくれることを、
私は自分の内に十分すぎるほどもっています。
しかし、神様の内では、私たちは誇りをもつべきだし、
神様の与えてくださる様々な賜物について大いに喜び、
誇りをもって周りの人たちに語るべきです。
  
  
皆の中で最悪に高慢な者だけが、
自分を謙虚だとみなし、それを誇って言いふらします。
  
  
畏れと謙虚さがなくては、誰も神様を喜ばせることはできません。
  
  
キリストほど、自分を深みへと下降させた方は誰もいないし、
キリストほど、自分を取るに足りない者とみなした方は誰もいません。
それゆえ、イエス様だけが次のようにおっしゃれるのです、
「私から学びなさい。
なぜなら、私は静かで謙虚だからです」。
このような言葉は、
キリスト信仰者の誰一人として、口にしたことはないし、
また言ってはいけないものです。
誰一人として、
イエス様のような最高級の謙虚さと静けさを身に着けた者はいません。
この唯一の師に対しては、誰でも弟子の立場に留まるほかありません。

2013年1月23日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 真の謙虚さ(フィリピの信徒への手紙2章8節)(その1)


真の謙虚さ (「フィリピの信徒への手紙」28節)

真の謙虚さは、謙虚さとは何か知らないものです。
もしも知っていたならば、
そのように大きな(自分の)美徳について高慢になってしまうことでしょうから。
しかし、
偽りの謙虚さは、自分が高慢であることを決して知るようにはなりません。
もしもそれを知っていたならば、
自分の高慢を憎んで、たちまちのうちに謙虚になったことでしょうから。
  
  
神様の知恵は、
高慢な人々に対しては、たんに外面的な現象としてあらわれます。
しかし、
謙虚な人々に対しては、内面的な真理や隠された基盤としてあらわれます。
  
  
人は、自分の救いが、
自分自身の力や助言や懸命な努力や意志や行いの決して及ばない
「外部」にあることと、
「他の存在」、すなわち唯一なる神様、の自律や助言や意志や行いに
全く依存していることとに気が付くまでは、
自分自身を心底から謙虚にはできません。
   

2013年1月21日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 喜んでいる、勇気のある心(その2)


   
喜んでいる、勇気のある心(その2) 
  
  
不信仰の心の持ち主は、百万円使ってもうまくことが運びませんが、
神様に信頼する人は、百円だけしかなくても万事うまくいきます。
神様はわずかの財産を祝福して、その少しのものによっても
たくさんのことを実現するようにしてくださいます。
不信仰な心の持ち主は、百万円によってさえ、
心の安らぎやへりくだった心を手に入れることはできません。
ところが、
信仰の心をもつ人は、たった百円でもそれらをいただけるのです。
    
   
キリストが来られるとき、
キリストは外面的な惨めさをそのままに残しておかれますが、
一方では、
人を強めて、そのおびえた心を恐れを知らないものに変え、
落ち着きのない良心を安心感で満たしてくださいます。
その目的は、
その人が、全世界が恐怖に震えるようなところ
(場所や立場や状況など)にいても、
神様にしっかり守られて、
喜んでいられるようになることにあります。 

2013年1月18日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 喜んでいる、勇気のある心(その1)



喜んでいる、勇気のある心(その1)
  
 
私たちの心は、
神様の栄光と力と知恵とを知るようになるべきです。
その時、心は神様の御支配にすべてをゆだねるようになるからです。
その時、心はすべてが神様のわざであることを知ります。
それゆえ、心は何も恐れず、
寒さも、飢えも、地獄も、死も、
死も、悪魔も、貧しさなども、恐れません。
なぜなら、心はこう言うからです、
「私の中に住んでおられる神様は、
悪魔や死やあらゆる地獄の力よりも大きい」。
こうして人の中に、
この世に存在するあらゆるものに対して、
勇気ある態度を取る心が育ちます。
そのような心の持ち主は、
神様とそのすべてのものをもっており、
行うべきことがらを恐れずに行うからです。
  
  
「この世的な平和」は、
平和を乱す外面的な悪を取り除きます。
しかし、「キリストの平和」は、
外面的には依然として、
敵や病気や貧困や罪や死や悪魔などの
「不幸」の只中にあります。
これらの不幸は常に近くにあり、
あらゆる方向から私たちを取り囲んでいます。
しかし、内面的には、心の中に慰めと平和があるので、
心は不幸を気に留めません。
それどころか、心は、
不幸がないときよりも力を得て、
ますます勇気に満ち、ますます喜ぶようになります。
それゆえ、それは
「あらゆる理解を超える平和」と呼ばれるのです。
 

2013年1月16日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 新しい命の中で歩むことについて(ローマの信徒への手紙6章4節)(その4)

 
新しい命の中で歩むことについて 
(ローマの信徒への手紙64節)(その4)
  

 
再び生まれて御霊と恵みの中で新しく創造されてはいない人たちは、
神様とその栄光を知ることが決してできません。
  
  
十字架につけられたキリストを知ることを学びなさい。
そして、
「主イエス様、あなたは私の義です。でも、私はあなたの罪です」、
と言うことを学びなさい。
  
  
もしも私が神様を心の底から魂の限りを尽くして愛するなら、
私の目は冷淡ではないはずですし、
私の舌は悪い言葉を一言も口にしないはずですし、
私の手や足や耳は怒りのそぶりも見せないはずです。
それどころか、私そのものが、
外的にも内的にも、足の先から頭のてっぺんまで、
愛の中を歩み、神様を抱きしめ、敬うことでしょう。
   
   
神様を畏れ信仰の中で生きる人、
神様が与えてくださることに深い信仰の中で満足し、
それを神様の中で正直に保ち、
誰にも悪いことや損害を与えない人は、
真の意味で「豊かな」人です。
そのような人は、
貧しさの中でも「最高のもの」をもっています。
それは、神様の祝福です。

2013年1月14日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 新しい命の中で歩むことについて (ローマの信徒への手紙6章4節)(その3)



新しい命の中で歩むことについて 
(「ローマの信徒への手紙」64節)(その3)

  
 
聖霊様はキリスト信仰者に与えられていますが、
それは、聖霊様が私たちの心の中の愚かな考えと戦ってくださるためです。
「愚かな考え」とは、義を拒絶する考えのことです。
この「義」とは、
神様が(イエス様の十字架のみわざのゆえに)
私たちを受け入れてくださる根拠であり、
私たちの信仰を深めるために用いてくださるものです。
それからさらに聖霊様は、
私たちの霊や魂や身体が、「聖化」の中で、
日に日に磨きがかけられ成長していくように、
私たちを祈りやあらゆるよいわざへと励ましてくださいます。
  
  
私たちは、神様の律法を本来なら完全に守るべきであるのに、
実際はそうできません。
救いの恵みの御国では、そうした不完全さについて、
私たちはキリストによって、罪の赦しをいただきます。
しかし、それとともに私たちにはそのとき聖霊様が与えられます
この方は、私たちの中に
神様の御命令に従おうとする新しい意欲と愛を燃やしてくださいます。
これは救いの恵みの御国で始まり、「最後の日」に至るまで続いていきます。
そしてその日には、私たちはまったく完全な者になります。
  
  
絶望の中で、私たちは希望をもち続けなければなりません。
なぜなら、恐れは絶望の始まりにほかならないし、
希望は救いの始まりにほかならないからです。
相戦っているこれら二つ(恐れと希望)は、
いやおうなく私たちの中に存在し続けます。
私たちの中には相戦っている「古い人」と「新しい人」がいるからです。
「古い人」は恐れを抱き、絶望に陥り、死ぬほかありません。
「新しい人」は希望を抱き、安定して、成長していくことになっています。
これら二人の「人」は今も一緒に同じ人間の中に存在しており、
それゆえ、一緒に同じ神様のわざの中にいます。
彫刻家は、不要な部分の材料を砕いて除去することで、
造ろうとしている像をより美しくしていきます。
それと同じように、
(神様への正しい)畏れは「古い人」なるアダムを砕いて死に至らせます。
それによって、「新しい人」を形作る希望が成長していきます。

2013年1月11日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 新しい命の中で歩むことについて(ローマの信徒への手紙6章4節)(その2)


 
新しい命の中で歩むことについて
(「ローマの信徒への手紙」64節)(その2)

 
 
人がパン種をパンの生地から分けることができないのと同様に、
悪魔はキリストを教会から分けることができません。
生地はパン種によってすでに膨らんでいます。
悪魔にはパン種を生地から分けることが許されていません。
悪魔がそれを煮ようが焼こうが焦がそうが洗おうが、
パン種なるキリストはいつも生地の中におられ、
終わりの日までそこに留まりつづけています。
そうして、ついにはすべてがパン種によって膨らみます。
生地のごく小さな部分も含めて、膨らまないところはなくなります。
  
  
「古い人」の心の思いが死んだ後、
「新しい人」の命全体とあらゆる力とは、
その変化に従って柔軟に曲げられ変えられていかなければなりません。
たとえば蛇は、自分の古くなった皮を脱ぎ捨てるために窮屈な穴をさがします。
そして、それを通り抜けることで皮を脱ぎ、穴の外に捨てます。
それと同じように、人間もまた、
福音に対して降伏し、
神様が嘘をつくことはありえない、と信頼しつつ、
福音の約束の中に入り込まなければならないのです。
このようにして人は「古い皮」を脱ぎ捨てます。
自分の光や、自分の意見や、自分の意志や、
自分の愛や、自分の欲望や、自分の話や、自分の活動を
「外」に捨て去ります。
そうして人はまったく新しい人に変わるのです。
この「新しい人」は、今までとは違うやり方で、
裁き、決断し、意志し、望み、話し、
考え、愛し、欲し、計画し、影響を与えます。
 

2013年1月9日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 新しい命の中で歩むことについて (ローマの信徒への手紙6章4節)(その1)


 
新しい命
  
 
新しい命の中で歩むことについて 
(「ローマの信徒への手紙」64節)(その1)
 
キリストの復活を宣教する御言葉のもとに留まっているだけではいけません。
御言葉を聴き、それについて話すことで、
「キリストにお仕えする」ことにはならないのです。
御言葉は、私たちの命を通しても表にあらわれなければなりません。
死んだ人に命についてたくさん話したところで、
命はその死人を助けはしません。
それと同じように、
罪人に義について話しても、
もしもその罪人が罪の中に留まるならば、
義はその罪人を助けはしません。
あるいは、
迷妄に陥っている人に向かって真理について語ったところで、
もしもその迷い人が自分の誤謬と暗闇を捨て去らないならば、
真理はその迷子を助けはしません。
  
  
今や福音があきらかにされ、キリストについて世界中で宣教されています。
とはいうものの、
福音の光に照らされてそれをはっきり理解するのは、
福音を受け入れ、信仰の歩みの中でまどろみから覚めた人たちだけです。
眠り込んでいる人たちにとっては、太陽も昼間も役には立ちません。
なぜなら、
彼らには光がなく、
太陽も昼間もないときと同じくらい何も見えてはいないからです。

2013年1月7日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 聖餐式に参加しなさい!


 
聖餐式に参加しなさい!
  
 
「あなたがたのために与えられ、
また、あなたがたのために流されました」
(イエス様が聖餐式を設定なさったときの御言葉より)。
 
宝物は開かれて、ひとりひとりのドアの前に置かれています。
というか、ひとりひとりのテーブルの上に置かれてさえいます。
しかし、それだけでは足りないのです。
大切なのは、あなたがその宝物を本当に「自分のもの」とし、
上の御言葉があなたに何を与えてくれるか、揺るがずに信じることです。
これが、
クリスチャンとして、この聖礼典に正しくあずかるための準備なのです。
  
  
キリスト御自身が、
「医者は必要なのは健康な人ではなく、病人です」、と言われています。
「病人」とは、
罪や、死の恐怖や、肉と悪魔の圧迫に悩まされている人たちのことです。
もしもあなたが苦しめられ、自分の弱さを実感しているなら、
勇気をもって聖餐式に参加しなさい。
それにより、清めと慰めと強めをいただきなさい!
自身の弱さから解放された清い者、
聖礼典を受けるにふさわしい者
になるまで待ち続けるつもりの人は、
聖餐式をいつまでたっても受けられないままになるほかないからです。