2019年2月22日金曜日

「力なき者に力を」「ヨシュア記」1章9節より「ヨシュア」

「ヨシュア」

あなたがどこへ行こうとも、あなたの神様、主があなたと共におられます。
(「ヨシュア記」19節より)

モーセの死後イスラエルの民の指導者になったのはヨシュアでした。
上に立つ者に必要な勇気をヨシュアは十分に持ち合わせていました。
彼の指揮の下でイスラエルの民はアマレクの民に勝利しました。
「約束の地」を獲得する戦いは大いなる勇気を要しました。

ヨシュアが勇気を維持できたのは
「彼がどこへ行こうとも神様が彼と共にいてくださる」
という御言葉の約束のおかげでした。
くじけそうになったとき、
ヨシュアは新たな勇気をいただくために神様の御許へと急ぎました。
神様を畏れる指導者はイスラエルの民にとって大いなる祝福となりました。

キリスト信仰者として私たちも
「主の戦い」へ参戦し
「主の御国の事業」を推進するために召されています。
私たちは福音の御言葉の力によって
人々をキリストの支配の下へと獲得していくのです。
この戦いは大いなる勇気を必要とします。

イエス様は臆病な私たちを叱って
「信仰の薄い者たちよ、あなたがたはどうして臆病になっているのですか」
と言われます。

一方で、イエス様は私たちを励まして
「見なさい、私はこの世の終わりまで日々あなたがたと共にいます」
とも言ってくださっています。

イエス様はすでに罪と死と悪魔に対して
最終的な勝利を収めておられます。

人間の目には敗北に見えることも、
イエス様は私たちの勝利にかえてくださいます。
エス様に従うとき、私たちは常に勝利の行進に連なっています。

臆病さを捨ててください。
私たちは神の小羊の血と証の御言葉を通して
確実に勝利を収めることができるからです。

(祈り)主よ、どうか私の中に
あなたの御言葉の約束に基づいた勇気を形作ってください。アーメン。
(関連聖句)「申命記」3118

2019年2月15日金曜日

「力なき者に力を」「出エジプト記」17章12節より「フル」

「フル」

アロンとフルは、モーセの手をそれぞれの側から支えました。
(「出エジプト記」1712節より)

イスラエルの民が約束の地への旅を続けていた時、
アマレクの民が彼らに戦いを仕掛けてきました。
モーセは神様の杖を手にとって山に登り、戦いを見守りました。

モーセが手を高く上げていた間は、
イスラエルの民が勝ちそうになりました。
ところが、モーセが疲れた手を下げると、
アマレクの民が勝ちそうになりました。

戦いが一日中続いたため、モーセの手は疲れてしまいました。
その時、アロンとフルが彼の手を支えはじめました。
敵が打ち破られるまで、それは続けられました。

フルはこのたった一つの目立たないけれども必要不可欠だった行いのゆえに
聖書にその名が記されています。

私たちも自分の目立たない任務を軽んじないようにしましょう。
(そうは見えなくても)それらは実は
偉大な事業におけるきわめて重要な任務であることがしばしばあるからです。

このような奉仕の模範を示されたのは、
奉仕されるためではなく奉仕するためにこの世に来られたイエス様です。

イエス様への信仰を通して、
私たちは喜びをもって献身的にイエス様に仕えることができます。
たとえ私たちの任務が周囲の人々の目には取るに足らないものに見えたとしても、
それは変わりません。

イエス様に自分の人生の舵取りをすっかりおゆだねするとき、
私たちは自己の任務に忠実な者であると認められます。
たとえその任務がどれほど些細なものに見えたとしても、
それは変りません。

イエス様は
血の汗を流すほどまで、
また十字架で死なれるほどまで、
御自分の任務を忠実に果たされました。
それは、私たちを「イエス様に属するもの」とするためでした。

イエス様は私たちを
罪の隷属状態や悪魔の専制支配から救い出してくださいました。
それによって、私たちがイエス様にお仕えできるようになるためでした。
たとえ私たちの奉仕に他の誰も気づかないとしても。

(祈り)主イエス様、
私がどんな小さな任務に関しても忠実であるように助けてください。
(関連聖句)「出エジプト記」17813

2019年2月11日月曜日

「力なき者に力を」「創世記」5章24節「エノク」

「エノク」

エノクは神様と共に歩みました。
神様が彼を取られたので、いなくなりました。
(「創世記」524節)


この地上で生きた人間のうち二人だけが死ぬことなく天国へと取られました。
その二人とは、エリヤとエノクです。
神様はエリヤを火の車で出迎えました(「列王記下」2章)。
エノクについては短く
「神様が彼を取られたので、いなくなりました」
と記されています。

エノクは「神様と共に歩みました」。
さらに「ヘブライの信徒への手紙」は、
エノクが「神様に喜ばれた者であった」こと、
そして「信仰がなくては神様に喜ばれることができない」ことを教えています
(「ヘブライの信徒への手紙」1156節)。
エノクは義とされた信仰
(すなわち神様によって受け入れていただける正しい信仰のこと)
を持つ人でした。
彼が神様の友として地上で365年間歩んだ後、
神様は彼に死を与えることなく
栄光をまとわせて天の御国へ迎え入れてくださいました。

このエノクの人生は、
私たちが救い主に信仰を通して繋がり続けることの大切さを教えてくれます。
エノクが受けた栄光は、
いつか私たちにも同じ栄光が与えられるという証でもあります。
このようにして私たちの永遠の命への希望は強められていくのです。

これら二人の例外は、
神様によって設定された普遍的な秩序を変更するものではありません。
やはり人は皆、いつか死ななければならないのです。
それは信仰者の場合も同じです。

ただし、私たちが生きている間に
キリストが再臨して最後の裁きの日が到来する場合には、
その限りではありません。

神様と共に歩む人にとって死は夢に過ぎません。
その人はキリストの栄光の中でこの夢から目覚めることになります。
パウロと共に私たちはこう言います、
「私にとって生きることはキリスト、そして、死ぬことは勝利です」
(「フィリピの信徒への手紙」121節)。

(祈り)主よ、どうか私が救いにあずかって死ぬことができますように。
アーメン。
(関連聖句)「ヘブライの信徒への手紙」1116

2019年2月1日金曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」10章38節より「マルタ」

「マルタ」

マルタという名のある女の人がイエス様を家に迎え入れました。
(「ルカによる福音書」1038節より)


活きた信仰は活動的で、よいわざを行います。
マルタは活きた信仰者の実例です。
彼女はイエス様とその弟子たちを家に招き、彼らに仕えました。
彼女は親切に旅人をもてなしました。

それなのに、なぜイエス様はマルタを注意されたのでしょうか。

それは、マルタが自分のしている奉仕のことで頭がいっぱいになり、
イエス様が彼女に仕えてくださっていることを忘れていたからです。

マルタは
(奉仕に励んでいる)自分のほうが
(座ってイエス様の教えに耳を澄ませている)姉妹のマリアよりも立派である
と思っていたのです。

もしもマルタがこのような考えにとらわれたままだったなら、
彼女にはもう正しい信仰も正しい行いもなくなってしまったことでしょう。

「マリアはよい役割を選んだのだから、
彼女からそれをとりあげてはいけないよ」と言って、
やんわりとイエス様はマルタの間違った考え方を正してくださいました(42節)。

「自分はよいことをやっている」とか
「そのおかげで自分は神様に義と認めてもらえる(受け入れてもらえる)」
などといった考えがいかに危険であるかを知っておくのは大切です。

私たち人間には「自分のよい行いのおかげで自分は義とされている
(神様に受け入れられる)」と考えようとする傾向があります。

「私たち自身の義」なるものが実は汚れた衣装にすぎないこと、
キリストにおいてのみ私たちには罪の赦しと救いがあることを、
神様の恵みだけが私たちに具体的に教えてくれます。

キリストの御言葉を聴くことにより、
私たちは「自分も捨てたものではない」という自惚れた思いを持たずに済みます。

一番大切なのは「イエス様が罪人たちのために成し遂げられたこと」です。
これを信じることによってのみ、私たちは神様に義と認めていただけるからです。

私たちの信仰にも、
どれほど立派な愛の行いにさえも、
かならず欠けたところがあります。
それらについても、私たちは神様に罪の赦しをお願いする必要があるのです。

(祈り)主イエス様、この世での心配事や仕事や家事などが
あなたの御言葉を聴く妨げにならないように、
どうか私をお助けください。アーメン。
(関連聖句)「ルカによる福音書」103842