2017年6月30日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「詩篇」39篇5~6、8節(その3)

主よ、
私の終わりについて、
また、私の人生の長さがどれほどかについて、
どうか知らせてください。(中略)
ごらんください。
あなたは私の人生を両の手のひらほどの大きさに定められました。
私の人生は御前では無きに等しいものです。(中略)
主よ、今私は何を待ち望めばよいのでしょう。
私はあなたに望みをおきます。
(「詩篇」39568節)(その3)


死を深く見つめれば見つめるほど、
死ぬことがいかに難しく危険なことかがよく見えてわかるようになります。
死がまだずっと先にあり切迫してはいない時に、
死というものに考えをなじませ、
それに近づいていく必要があります。

しかし、死に瀕している時には、
すでに死それ自体が強大になりすぎているので、
そのような状況の下で死について思いを巡らすのは
むしろ危険で無益なことになります。

そのような時には、
死のイメージを心から追い払い、
それにまったく目を向けないようにしなければなりません。

死は、
私たち人間の本性が衰弱している不都合な時に
それを見つめて考察しすぎると、
その強大な力を発動させてしまうものだからです。

(次回更新は8月になります。)

2017年6月9日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「詩篇」39篇5~6、8節(その2)

主よ、
私の終わりについて、また、私の人生の長さがどれほどかについて、
どうか知らせてください。(中略)
ごらんください。
あなたは私の人生を両の手のひらほどの大きさに定められました。
私の人生は御前では無きに等しいものです。(中略)
主よ、今私は何を待ち望めばよいのでしょう。
私はあなたに望みをおきます。
(「詩篇」39568節)(その2)

神様があなたや誰か他の人に対して何をなさるおつもりか、
たとえば、
あなたは明日生きているのかそれとも死ぬのか、
健康かそれとも病気になるか、
これから何があなたの身に起きるか、
についてあなたは知りません。

私たちの人生がどのくらい長いかあるいは短いのか、
かりに神様が私たちに知らせてくださろうものなら、
私たちはあらゆる点で、
今よりもはるかに邪悪な者になりはててしまうことでしょう。
自分の人生がどうなるのか、
ひと時たりとも前もってわからないにもかかわらず、
私たちは自分の意地の悪さを改めようとはしません。


神様の御前において事実その通りであるように、
私たちは、
死を軽視すべき深く濃く甘い夢とみなし、
棺を私たちの主キリストの膝かパラダイスのようなものとみなし、
墓をふかふかのソファーとみなすという考え方に、
信仰によって自分を訓練して慣れさせるべきです。

2017年6月2日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「詩篇」39篇5~6、8節(その1)

主よ、
私の終わりについて、また、
私の人生の長さがどれほどかについて、
どうか知らせてください。(中略)
ごらんください。
あなたは私の人生を両の手のひらほどの大きさに定められました。
私の人生は御前では無きに等しいものです。(中略)
主よ、今私は何を待ち望めばよいのでしょう。
私はあなたに望みをおきます。
(「詩篇」39568節)(その1

死に対しては何の手立てもありません。
私たちは死なねばならないし、
誰もそれを避けたり押し留めたりすることはできません。
私たちに下されている死の宣告は非常に厳格なものなので、
誰もそれを阻止できません。
私たちはこの世から出て行くほかないのです。
この退出命令は、罪の中に生きている人々に対してだけではなく、
信仰者にも向けられています。
なぜなら、信仰者も自分の罪を感じており、
死ななければならないことを嘆くものだからです。