2026年6月29日月曜日

「力なき者に力を」「出エジプト記」15章24節「苦い水」

「苦い水」 

民はモーセに対して不服そうに

「私たちは何を飲むのですか」と言いました。

(「出エジプト記」1524節)

 

喉が渇いて苦しんでいる人に差し出された水が

もしも飲むに耐えないものだったとしたら、

不幸としか言いようがありません。

そして、荒野でイスラエルの民の上に起こったのはこのようなことでした。

民はやっと泉のほとりに辿り着いたものの、

そこの水は苦くて飲めたものではなかったのです。

 

彼らはモーセに不平を言いました。

その時、モーセは主に叫びました。

すると「主が彼に一本の木を示されたので、

それを水に投げ入れると水は甘くなりました」(25節)。

 

私たちも渇きを覚えているときに

口元に「苦い水」をもらうことがあります。

信頼を裏切られたり、

計画がだめになったり、

健康を害したりする場合もあるでしょう。

自分があたかも包囲されているかのように感じられるのです。

そのような時、私たちは主に叫ぼうともしないで

不平ばかりこぼすのではないでしょうか。

 

今もまた主は私たちに

苦い水を飲める水に変えてくれる木を指し示しておられます。

その木とはゴルゴタの十字架です。

この十字架の木でイエス様が私たちの罪の罰を引き受けて苦しまれたことを

御言葉は私たちに教えています。

私たちは神様と和解させていただき、罪を赦していただきました。


神様は私たちに不要な試練を一つたりともお与えにはなりません。

この試練という十字架は私たちの人生の苦い水を飲めるものに変えてくれます。

そして、私たちは苦しみのさなかにあっても神様を賛美することを学ぶのです。

 

(祈り)

私に与えられた分が大きいものであっても小さいものであっても、

私は自分の人生と道をあなたにゆだねます。

お父様、どうか私たちひとりひとりを導いてください。

国と力と栄えとはあなたのものです。アーメン。

(関連聖句)「出エジプト記」152227

2026年6月25日木曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」6章33節「まず一番大切なものを」

「まず一番大切なものを」

 

まず神様の御国と神様の義とを求めなさい。

(「マタイによる福音書」633節)

 

私たち人間には実に変なところがあります。

イエス様が「まず神様の御国を求めなさい」と言われるときに、

まず私たちはこの世的なものを探し、儚いものに喜びを求めるのです。

 

神様に受け入れていただける義は、

キリストが私たちの救いのために成就した十字架の御業の中にしかありません。

 

キリストを通して私たちは神様との平和をいただいています。

この聖霊様の御国はイエス様のうちにあります。

イエス様は福音と聖礼典(洗礼と聖餐)のうちから見いだされます。

それゆえ、神様の御言葉を聴くのはなによりも大切なことなのです。

御言葉が純粋に宣べ伝えられる礼拝に私たちが参加することを妨げようとする

いかなる口実もあってはなりません。

私たちには御言葉なしで過ごす余裕など一日たりともないからです。

私たちの罪の赦しのためにイエス様がその身体と血の聖礼典を与えてくださる

新しい契約の食事(聖餐式)に参加しないことがどうしてありえましょうか。

また、洗礼を通して神様が私たちを御自分の子どもとして生んでくださった

という恵みの契約に日々立ち返っていくことも大切なことです。

 

神様の御言葉が用いられているとき、

主の御業が私たちにとっていっそう大切なものになります。

そして、私たちは神様の御国の拡大のために

自分の時間や才能や資力を喜んで活用するようになります。

このようにして、

一番大切なことがそれにふさわしく一番はじめにくることになるのです。

 

(祈り)あなたの愛をどうか私たちにも大きくしてください。

それによって、私たちが自分のために生きることを

やめることができるようになるためです。

神様、私たちのうちにも

自らを御国のために捧げる私欲のない心を形作ってください。

そして、私たちがいつもしっかりと目を覚まして

祈れるようになさってください。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」134446

2026年6月22日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」25章15節「あなたは自分の賜物をどのように用いていますか?」

「あなたは自分の賜物をどのように用いていますか?」

 

ある人が(僕たちの)それぞれの能力に応じて、

ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを

与えて旅に出ました。

(「マタイによる福音書」2515節)

 

有名なアメリカ人の伝道者のメッセージを批判的に聴いていたある人が、

あとでその伝道者のもとに来てその言葉遣いの誤りを指摘しました。

すると、彼はこう答えました、

「おそらく私は間違った言葉遣いをしたのでしょう。

私の受けた教育は不十分なものだったからです。

それでも、私は自分のもてる語学力をキリストに仕えるために用いています。

あなたも同じようにしていますか」。

 

自分に賜物が欠けていることを言い訳にして、

主に仕えようとしない自分のやる気のなさを正当化しようとする

キリスト信仰者たちがいます。

「いろいろ忙しいから」という人もいれば

「経済的な余裕がないから」と言う人たちさえいます。

 

タラントのたとえを通してイエス様は、

私たちが多分やるかもしれないことではなく、

私たちが実際に行うことにこそ関心をお持ちであることをお示しになりました。


イエス様は私たち一人一人に、

それぞれの能力に応じて数多くの恵みの賜物をくださいます。

より多くの賜物を授かっている人から、

イエス様はより多くのことを要求なさいます。

一方、より少ない賜物を授かっている人からは、

より少ないことが要求されるのです。

しかし、

それぞれが授かっているタラントを忠実に用いることが前提になっている

という点は皆に共通しています。

 

キリストはすべての人のために死なれました。

それは、

生きている人がもはや自分のために生きるのではなく、

自分のために死んでくださり、

よみがえってくださったお方のために生きるためなのです。

 

(祈り)天の父なる神様、

あなたが私にくださったタラントを

イエス様のために忠実に用いることができるように、

どうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」251430

2026年6月16日火曜日

「力なき者に力を」「詩篇」26篇8節「御言葉を聴きに行っていますか?」

「御言葉を聴きに行っていますか?」 

主よ、私はあなたの住まわれる家と、

あなたの栄光のとどまる所とを愛します。

(「詩篇」268節)

 

「私は主の住まわれる家を愛している」

と私たちは正直に言うことができるでしょうか。

私たちは神様の御言葉を聴くことを本当に願っているのでしょうか。

 

キリスト教会の会員のうちどれほど多くの人々が

神様の御言葉の説教を軽んじて、

それとはかけ離れた別の場所にいそいそと出かけていくことでしょうか!

彼らの礼拝に参加できない原因やその理由付けは

とってつけたようなものが大半です。

しかし、神様相手にそのような申し開きが通用するのでしょうか。

 

御言葉が混じりけなくはっきりと宣べ伝えられるところでは、

神様御自身が私たちに話しかけてくださいます。


イエス様は

あなたがたに聴き従う者は私に聴き従うのであり、

あなたがたを拒む者は私を拒むのです。

そして私を拒む者は私をお遣わしになった方を拒むのです

と言っておられます(「ルカによる福音書」1016節)。


神様の御言葉を自宅で読んだり、

ラジオやテレビやインターネットなどから聴いたりするだけで

満足するべきではありません。

私たちの本来の居場所は、キリスト信仰者たちが一堂に会する場所なのです。

 

教会(礼拝)はキリスト信仰者の集まりです。

主の栄光は、律法の説教を通して私たちが罪を自覚するところで輝き、

またイエス様のあがないの御業が罪の赦しを用意してくれたことを

福音の説教によって私たちが全き賜物として受け取るところで輝き渡ります。

 

御言葉のメッセージを私たちは必要としています。

これがなければ、私たちはどうしようもありません。

私たちは御言葉のメッセージの提供する力と教えを必要としています。

律法と福音の御言葉を聴いてそれを心にしっかり刻む者はさいわいです。

 

(祈り)

主よ、御言葉を忠実に解き明かす説教者をどうか私たちにお与えください。

そして、私たちがあなたの聖なる御言葉を注意深く聴いて、

それを心に保てるようになさってください。アーメン。

(関連聖句)「使徒言行録」23742

2026年6月12日金曜日

「力なき者に力を」「マルコによる福音書」8章2節 「イエス様は私たちを憐れんでくださいます」

「イエス様は私たちを憐れんでくださいます」


この人たちがかわいそうです。

もう三日間も私のところにいるのに、何も食べるものがないのですから。

(「マルコによる福音書」82節)

 

人々は通りや外で押し合うようにして集まっていました。

その様子はあたかも羊飼いのいない羊の群れのようでした。

ここで、イエス様が憐れみの態度で群衆に接したことを思い出しましょう。

何千人もの人々に食べ物を与えることを通して

困っている人たちを憐れみ助けてくださることをイエス様は示されたのです。

 

罪によって傷つけられ悲しみと苦しみの下にある人々を

このことは慰めてくれます。

 

預言者を通してイエス様はこう言っておられます。


彼らのあらゆる悩みの時、

主も悩まれて、

その御前の天使をもって彼らを救い、

その愛と憐れみによって彼らをあがない、

永続的に彼らを持ち上げ、

携えてくださいました

(「イザヤ書」639節)。

 

この憐れみの心は、

イエス様を十字架での苦痛な死へと追いやることになりました。

飢え疲れた人々を憐れまれたイエス様は

決して変わることがないことを忘れてはいけません。

イエス様は昨日も今日も永遠に同じお方です。

イエス様の憐れみの心には限りがありません。

イエス様の恵みと罪の赦しとは毎朝新しく、

イエス様の忠実さは偉大です。

イエス様は疲れた人々に力を与えてくださいます。

 

主に憐れんでいただいた者として、

私たちもまた憐れみの心を持ち、

それを実践していきましょう。

イエス様に属する者たちはまさにこのようにしたいと望みます。

 

(祈り)父が子を憐れむように、

主よ、あなたは私たちを憐れんでくださいます。

苦境に立たされている隣り人に同情して助ける憐れみの心を

どうか私たちにお与えください。アーメン。

(関連聖句)「マルコによる福音書」819