2019年8月19日月曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」6章19節「揺るがぬ希望」

「揺るがぬ希望」

私たちが抱いている希望は魂を揺るがぬものとする錨のようなものです。
そして、この希望は神様の幕屋の内側にまで広がっているのです。 
(「ヘブライの信徒への手紙」619節)
 
希望は魂を揺るがぬものにする錨です。
人生の嵐の中にいる私たちは錨を必要としています。
錨があれば、私たちは風の吹くままに流されることもなく、
数々の危険の最中にあっても平和と安全を保つことができます。
このような希望の錨がキリストの福音にはあります。
 
福音は私たちに、
イエス様を通して顕現した神様の愛や、
イエス様を通して賦与された命を語り伝えてくれます。
イエス様は私たちのために、生きて死んで復活なさいました。
イエス様は私たちを、罪ののろいから救い出すためにこの世に来られました。
そして、これらのことが本当であることを神様の御言葉は確証しています。

「あの方はもうここにはおられません。
かねて言われていたように、復活されたからです。
こちらに来て、あの方が横たわっておられた場所を見てごらんなさい」
と園にあらわれた天使は告げました(「マタイによる福音書」286節)。

イエス様のみが神様の御子です。
イエス様の十字架の死は、
常に変わることなく、
私たちの罪を取り除くために十分な力を持った犠牲の捧げ物です。
私たちもまた、最後の日には死者たちの中から復活することになります。
これらのことを、イエス様の復活は証しているのです。

この私たちの希望は活きた希望です。
この希望は墓の向こう側にある天国の栄光へと延びています。
この希望は私たちの期待を裏切りません。
この希望を抱く私たちが恥をかくようなことにはなりません。

私たちはこの希望をまだ実際に見てはいません。
しかし、神様の備えられた大切な瞬間がついに訪れて、
それまで信じていたことが目に見えるものに変わる時に、
私たちの希望は実現するのです。

(祈り)イエス様の復活を通して、
私たちを活きた希望へと新たに生んでくださった神様が、
どうかほめたたえられますように。アーメン。
(関連聖句)「ペテロの第一の手紙」139

2019年8月5日月曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」17章5節より「キリストへの信仰」

「キリストへの信仰」
 
主よ、私たちの信仰を増してください。 
(「ルカによる福音書」175節より)
 
信仰はしばしば誤解を受けています。
「あなたにはまず信仰がなければなりません」と言うならば、
信仰はあたかも仕事や業績のようなものになってしまいます。
その一方では、
「信仰とはたんなる知識である」と考えている人もいます。
「私が救う信仰をもっているなどとどうしてわかるのか。
そもそも信仰とは一体何なのか」と問う人もいます。

信仰とは、
キリストを通して神様の愛と約束に信頼し自分をゆだねることです。

信仰とは、
私たちを罪から贖い出してくださった救い主として
イエス様というお方を正しく知ることです。
自らの良心と神様の律法とが私たちを責め立てるようなときに、
あるいは、自分自身の業績に頼りたくなったとき、
あるいは、悪魔が攻撃を仕掛けてきたとき、
私たちは信仰によってそれらから逃げ、
イエス様が成就なさった十字架と復活の御業の中に避難し、
罪の赦しという賜物をいただくことができます。

キリストを抜きにした信仰は無に等しいものです。
そのような信仰自体は空虚です。
イエス様への信仰だけが私たちを救います。

信仰はその対象によって意味を獲得します。
なぜなら信仰は、
御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)を通して啓示され臨在される
キリストに信頼することだからです。
信仰を通して、私たちはイエス様を自分の主として受け入れます。
信仰は神様の御言葉に常に堅く結びついています。
信仰は、御言葉がどれほど信じがたいものに見える場合であっても、
御言葉の正しさを信じます。

命の泉なるイエス様から力をいただくとき、
信仰は活きたものとなります。
「キリストの義」を着せていただくとき、
信仰はイエス様を信じる者を義とします。
信仰は神様の大いなる賜物を受け取る「手」のようなものです。
私たちは、もしも信仰が今よりももっと強かったなら、
神様からより豊かに受け取って、
神様の栄光のためにより多くの事柄を実現することができるでしょう。

(祈り)
主よ、どうか私を疑いから解放し、私の信仰を増してください。アーメン。
(関連聖句)「ルカによる福音書」1716