2020年4月24日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの第一の手紙」3章2節より「神様の子どもたち」

「神様の子どもたち」

愛する者たちよ、私たちは今や神様の子どもなのです。
(「ヨハネの第一の手紙」32節より)

「私はまったく価値のない存在だ。
私なんかいなくてもこの世界には関係ない。
誰も私のことを気にかけてくれない」
と感じたことが、ひょっとするとあなたにはあるかもしれません。

そのように考えるべきではありません。
どれほどの犠牲を払ってあなたが贖われたのかを思い起こしてください。
金でも銀でもなく、聖なる尊いキリストの血によって、あなたは贖われたのです。
キリストはあなたを聖なる洗礼を通して
御自分の子どもとして新たに生んでくださいました。
キリストはあなたのために天の御国の輝く栄光を用意なさっています。
「あなたがたは皆、キリスト・イエスにある信仰によって
神様の子どもなのです」(「ガラテアの信徒への手紙」326節)。

三位一体なる神様はあなたを抱きしめて
「あなたは私のものだよ」と言っておられます。

すべてが真っ暗になったように感じることも時にはあるでしょう。
しかし、
(洗礼を受けている)あなたが神様の子どもであるという事実は、
あなたが自分についてそれをいつどのように感じているかに応じて
変化するものではありません。

神様は次のように言われます、
「女がその乳のみ子を忘れて、
その胎の子を憐れまないようなことがありましょうか。
たとえ彼らが忘れるようなことがあっても、
私はあなたを忘れません」(「イザヤ書」4915節)。
 
あなたは神様の子どもです。
家族の一員なのです。
家族の食卓にはあなたの分もちゃんと用意してあります。
着る物もあるし、
天の御父様の愛する子どもとしてあなたは完全な世話を受けられるのです。
子であるあなたは相続者、
神様の御国を継ぐ者、キリストと共に継ぐ者なのです。 
 
(祈り)イエス様、
あなたは水と血を通して私にあなたの尊い賜物をくださいました。
あなたは洗礼を通して私を天の御父様の御許へ運んでくださいました。
私は御国を継ぐことを許されました。
私は天の子どもにされました。
イエス様の十字架の御業を通して
私は天の子どもたちのリストに加えられたのです。
(関連聖句)「マタイによる福音書」62434

2020年4月16日木曜日

「力なき者に力を」「詩篇」103篇2節「忘れてはいけません」

「忘れてはいけません」

私の魂よ、主をほめたたえなさい。
主のすべての御業を忘れてはいけません。
(「詩篇」1032節)

神様は忘れてくださっているのに、
過去に行った罪を忘れるのは当事者には難しいものです。
その一方で、私たちは忘れるべきではないことを忘れてしまったりします。

この「詩篇」は、神様がどれほど素晴らしき御業を行ってくださったかを
しっかり記憶に留めるように勧めています。
まず、神様の最も尊い善き業が述べられています。
「主はあなたのすべての罪を赦し、あなたのすべての病を癒されます」(3節)。
義なる神様と罪深い人間との間に和解をもたらすため、
十字架で全人類の罪をすべて引き受けて帳消しにしてくださった
イエス様の尊い和解の御業のゆえに、
神様は私たちのすべての罪を赦してくださいました。
「ちょうど東が西から遠いように、
主は私たちの罪過を私たちから遠ざけてくださいます」(12節)。

神様は人の悔い改めようとしない心を打ち砕いて
「私は罪深い」という自覚を人に与え、
福音を通して罪の赦しを宣べ伝え、
私たちにこの賜物を授かる信仰をくださいました。
神様の善なる本質はこれほどまでに偉大なのです。
私たちが神様の子どもであることを私たちの霊と共に証してくださるために、
神様は私たちの心に聖霊様をくださいました。

神様は忘れっぽい私たちに御言葉をお与えになりました。
ペテロは次のように書いています、
「愛する者たちよ、
私は今この第二の手紙をあなたがたに書き送り、
これらの手紙によって記憶を呼び起こし、
あなたがたの純真な心を奮い立たせようとしました。
それは、聖なる預言者たちによってあらかじめ語られた御言葉と、
あなたがたの使徒たちによって伝えられた主なる救い主の戒めとを
思い出させるためです」
(「ペテロの第二の手紙」312節)。

ですから、私たちも
「私の魂よ、主をほめなさい。主のすべての御業を忘れてはいけません」
と言おうではありませんか。

(祈り)
恵みの子よ、喜びなさい。
楽器を奏で、歌いなさい。
救いを賜った主に感謝を捧げなさい。
アーメン。
(関連聖句)「詩篇」103114

2020年4月3日金曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」2章1節「あなたは自分を正当化することができません」

「あなたは自分を正当化することができません」

ですから、ああ、すべて人を裁く者よ、
あなたは自分を正当化することができません。
あなたは他人を裁くことによって自分自身を罪に定めているのです。
裁くあなたも同じことを行っているからです。
(「ローマの信徒への手紙」21節)

私たちは自分の欠点をまったく些細なものとみなす一方で、
同じ罪について他の人々をこの上なく厳しく裁いたりします。
自分自身には甘く他人には非情な態度をとるのは簡単なことです。

他の人のことを「なんて無責任な」と言っている私たち自身も
冷たい人間です。
他の人のことを「けちな人だね」とみなしている私たち自身も
ほんの少ししか人に分け与えません。
他の人のことを「告げ口屋め」ときめつける私たち自身も
隣り人について悪口を言っています。
他の人に「ここを直しなさい」と注意するくせに、
自分が注意されると我慢できなくなります。

ユダヤ教から転向した多くのキリスト信仰者は
まさにこのような態度をとりました。
彼らは聖書をよく知っていたにもかかわらず、
それに従いませんでした。
それなのに彼らは、
神様の御言葉に関して彼らほど知識をもっていない、
異教から転向したキリスト信仰者に対して、
とても厳しい要求を突きつけました。

これは私たちにもあてはまります。

罪の赦しがイエス様の十字架の死と復活の御業のおかげであることを
知っているのに、私たちはわざと不信仰な生活を送っています。
神様の子どもでありながら、
私たちはこの世に執着しています。

私たち自身、憐れみを受けた者なのですから、
他の人を憐れまない態度をとらないようにしましょう。
私たちはイエス・キリストにあって真理を知るようになったのですから、
真理の中を歩みましょう。
これは、自分の罪と弱さを絶えず告白することを意味しています。

(祈り)神様、私を検査して、私の心をお知りください。
もしも私の道が徒労の道なら、どうか私を永遠の道へと導き入れてください。
アーメン。
(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」2124節