2018年11月30日金曜日

「力なき者に力を」「テモテへの第二の手紙」1章3~5節より「ロイスとエウニケ」

「ロイスとエウニケ」

私は神様に感謝しています。(中略)
私は、あなたの中にある偽りのない信仰を思い起こします。
この信仰は、まずあなたの祖母ロイスに、
それからあなたの母エウニケに宿ったものでした。
(「テモテへの第二の手紙」135節より)
 
パウロには、どのような状況においても、
神様に感謝する理由がいくらでもありました。
一生懸命に仕事をして今まで生きてきた長い年月や、
今まで受けた迫害、また、これから起こる殉教に目を向けたとき、
パウロの心には、テモテとその母と祖母の偽りのない信仰が想起されました。
この思い出のために、彼は神様に感謝をささげたのでした。 

テモテは幸せな若者でした。
彼の受けた特権は、母と祖母、そして彼らの偽りのない信仰にありました。
自分のために祈ってくれている信仰の兄弟姉妹がいるということが、
困難な旅の途上で、どれほどパウロを慰めてくれたことでしょうか!

神様が私たちに、
私たちをキリスト信仰者の信仰の中ではぐくみ、
恵みの御座の前で私たちのために祈ってくれる、
信仰をもつ両親を与えてくださった場合には、
私たちもまた神様に感謝する理由が大いにあります。
永遠の世界の曙に、両親が自分の子どもたちと一緒に神様の御前に進み出て、
「私たちも、あなたが私たちに賜ったこの子どもたちも
皆そろってここにおります」、と言える瞬間は、
きっと救いの幸せに包まれていることでしょう。

信仰をもつ両親に、ルターはこう忠告しています、
「あなたが神様について自分の子どもたちに、
もうあまり話すことができなくなった時には、
あなたの子どもたちについて、神様にたくさん話しなさい」。

(祈り)主よ、キリスト信仰者の家庭を尊いものとみなし、
その健康によい影響が私の周りにも広がっていくように、
どうか私をお助けください。アーメン。

2018年11月26日月曜日

「力なき者に力を」「ルツ記」1章16節「ルツ」

「ルツ」

ルツはこう答えました、
「あなたを捨て、あなたを離れて帰れ、
などという罰を私にお与えなさいますな。
あなたの行かれる所に私も参りますし、
あなたが宿られる所で、私も一緒に宿ります。
あなたの民は私の民です。
あなたの神様は私の神様です」。
(「ルツ記」116節)

飢餓がイスラエルを襲い、
エリメレクという名の男が妻のナオミと共に二人の息子を連れて
モアブの地へと旅立ちました。
エリメレクの死後、息子たちは各々モアブ人の妻を娶りました。
後に若い妻たちは夫と死に別れました。
ナオミが祖先の地に帰ろうとするとき、彼女の二人の嫁が従ってきました。
しかし、ナオミは彼らに自分たちの故郷に帰るようにと言いました。
その時、ルツは自分の信仰と愛をこう言い表しました、
「あなたの民は私の民です。あなたの神様は私の神様です」。

その後、エリメレクの親戚にあたるボアズがルツを妻として迎えました。
彼らにはオベドが生まれました。
そして、このオベドから、ダヴィデの父となるエッサイが生まれました。
こうして、異邦人ルツはイスラエルの王族の母となったのです。
後にこの王の家系から世の救い主イエス様がお生まれになりました。

このことからわかるように、
イエス様の系図には、異邦人も含まれていたことになります。
イエス様の誕生という大きな喜びは「すべての国民」に関わることだったのです。
顕現主日を通して主イエス様の御降誕を覚えることは、
私たちキリスト信仰者が世界の宣教師の活動の大切さを覚えることでもあります。
キリストの福音という豊かな宝を周りにいる人々と分かち合うのは、
キリスト信仰者のもつ大きな特権です。
「キリストのゆえに私たちの罪は赦されている」という喜びの福音を
すべての国民に伝えていきましょう。

(祈り)主よ、イエス様の決してなくなることがない豊かさを
他の人たちと共に分かち合えるように、どうか私を教え導いてください。
アーメン。
(関連聖句)「ルツ記」11422

2018年11月19日月曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」1章21節「命と死の中で」

「命と死の中で」

私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは勝利です。
(「フィリピの信徒への手紙」121節)

ゲーテは幸福な境遇に生まれ、
すでに幼少の時には才能溢れる人物でしたが、
キリストを信じていませんでした。
晩年に彼はこう言っています、
「私の人生を振り返ると、
本当に満足して生活できたのは4週間もなかっただろう」。
もう一人の才人ヴォルテールは死の床でこう嘆きました、
「私はこうして神と人とに見捨てられて死なねばならないのだ」。

パウロはローマの牢獄からフィリピにいるキリスト信仰者たちに向けて
こう書きました、
「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは勝利です」。
上述の二人に比べて、
パウロの生と死に対する態度はどれほど異なっていることでしょうか!

パウロには、
彼のために死んで彼を使徒として召してくださった救い主への
燃えるような愛がありました。
彼は救い主のゆえに、大きな苦しみにも耐えることができました。
すでにこの世にいる間に、
彼は信仰を通してキリストへと結び付けられていました。
パウロは、死が彼をこの「涙の淵」から引き離す時、
キリストが彼に決して朽ちない義の冠、栄光、絶えざる喜びを
与えてくださることを確信していました。

私たちキリスト信仰者には皆、この救いの幸いなる希望があります。
それゆえ私たちは、救い主のために活き、お仕えするのです。
主が私たちをこの世の人生から天にある真の故郷へと招くとき、
この希望は成就します。
なぜなら、私たちには
イエス様の血を通して至聖所[1]に入る自由が与えられているからです。

(祈り)
主よ、あなたに向かって活きることができるように私をお助けください。
私がこの世での使命を果たした時、美しい天国へとお連れください。アーメン。
(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」12130


[1]至聖所とは、
旧約聖書においてはイスラエルの人々にとって神様と出会える最も神聖な場所でした。
そこには一年に一度だけ、大祭司一人だけが入れることになっていました。
それに対して、キリスト信仰者は誰であれ、
この特別な至聖所にイエス様の犠牲の血を通して入ることができるのです。(訳者註)

2018年11月14日水曜日

「力なき者に力を」「ガラテアの信徒への手紙」6章17節より「目印」

「目印」

私はイエス様の傷跡を身体に受けています。
(「ガラテアの信徒への手紙」617節より)

(「傷跡」という単語はギリシア語で
「スティグマ」の複数形が用いられています。)

使徒パウロは主に仕えるときにたくさんの苦しみを受けました。
イエス様について証をしたときに石を投げられたり鞭で打たれたりしました。
暴力を受けた傷跡が彼の身体には生々しく見えました。

傷跡は彼にとって誇りであり誉れでした。
彼が身を粉にして主イエス様の御心を実行していったことを
傷跡は証しているからです。

私たちは信仰のためや真理を証するために
肉体的な苦しみを受けることはないかもしれません。
しかし、私たちの生活の中にも
自分が主に属していることを示す目印があるべきです。
純真な信仰生活、
真の自己否定、
罪が心の扉で隙をうかがっているときにも常に目を覚ましていること、
主とその御心のために自分をささげることなどは、
私たちもまた主の弟子であることを知らせる目印です。

私たちもこれらの目印がはっきり見えるように生活しましょう。
神様が私たちの信仰をイエス様のゆえに
肉体的な苦しみを与えて試そうとなさる場合にも、
しり込みせずに喜びの心を持って主の御心に対して従順になりましょう。
そして、苦しみの中でも誇りを持って活きることをパウロから学びましょう。
キリストが私たちのために苦しまれ、
私たちがその御跡に従うようにと模範を示してくださったのですから。

(祈り)天のお父様、
主イエス・キリストの傷跡を自分の身体に受ける覚悟をもてるように
私をお助けください。
(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」111933

2018年11月7日水曜日

「力なき者に力を」「神様による養育」「ヘブライの信徒への手紙」1章3節より

「神様による養育」

その力ある御言葉によって万物を保ちつつ、
(神様の御子)は罪からの清めのみわざを成し遂げられた上で、
いと高きところにおられる大能者の右の座に着かれました。
(「ヘブライの信徒への手紙」13節より)

神様は万物を創造なさり、それを力ある御言葉によって保っておられます。
建築家は、家を建て終わったなら、その家の持ち主に鍵を渡して、
それから自分の用事を済ませるためにどこか他のところへ行ってしまいます。
ところが、神様はちがいます。
神様は万物の維持を続けていかれるのです。
もしも神様がこの被造物世界から遠く退かれてしまうなら、
全世界は崩壊し、その存在を停止してしまうことでしょう。

神様による養育は、物事の大小によらず、ありとあらゆることに及んでいます。
雀でさえ、神様がそう望まれなければ、地に落ちることがありません。
神様の独り子は、私たちを救うためにその聖なる尊い血を流してくださいました。
もしも神様が小鳥のこともきちんと養育してくださっているのなら、
御子の血を代価として罪から贖いだされた私たちのことを
養育なさらないことがありえましょうか。

鳥はその日の食事のことを心配したりはしません。
人間もこの鳥の模範に倣うべきです。
ところが私たちは、
自分ではどうすることもできないようなことのために
病気になるほど頭を悩ませています。

明日のことを心配して右往左往するのを止めなさい!
神様は、あなたがまだ神様に敵対していた時に、
愛する御子イエス様があなたの救いのために
みわざを成し遂げられるようにしてくださったのです。
そのような方が、今、イエス様と共にほかのすべてのことも
あなたに与えてくださらないことがありえましょうか?

「あなたの心配事を主にお委ねしなさい。
主があなたの面倒をみてくださるからです」
(「詩篇」5523節)。

(祈り)天のお父様、私が自分の嘆きをあなたの上に投げてお委ねし、
自分の道をあなたにお任せできるように、どうか助けてください。
あなたがすべてを良い結果へと導かれることを
私が揺るぐことなく信じることができるように、どうかお助けください。
アーメン。
(関連聖句)「マタイによる福音書」62534

2018年11月2日金曜日

「力なき者に力を」「幼少の頃から」「テモテへの第二の手紙」3章15節より

「幼少の頃から」

すでに幼少の頃から、あなたは聖書を知っています。
(「テモテへの第二の手紙」315節より)

イエス様は洗礼を受けるために洗礼者ヨハネのところに来られた、
と福音書は語ります。
イエス様が洗礼を受けられた時、天が開きました。
同じように、洗礼を通して私たちにも天が開いたのです。

父なる神様は私たちを御自分の子として承認なさいました。
イエス様は私たちに義の衣を着せてくださいました。
聖霊様は私たちが新たに誕生するようにされました。

洗礼を受けた子どもたちが皆、
幼い頃から神様の御言葉の教えを伝授されることを、
神様は望んでおられます。

パウロの同僚テモテは家族のおかげで幼い頃から聖書を知ることができました。
これは大いなる恵みでした。
これを基礎にして、彼はキリスト信仰者として成長したのです。
さらにパウロの指導の下で彼は優れた宣教師になりました。

「キリスト教信仰のことは子どもが大人になってから教えればよい」
などと考える親をもつ子どもたちは、
そのせいでどれほどひどい損害を被っていることでしょうか!

幼い頃に聖なる洗礼を通して救い主にだっこしていただけた人や、
その血によって全人類を罪の呪いから解放してくださった
「子どもたちの友」なるイエス様と幼少の頃から親しむ機会が与えられた人は、
幸いな者です!
子どもがイエス様と親しむための信仰教育をとても重要視する親は、
幸いな者です!

(祈り)主よ、あなたの御言葉が本当に私たちの心の中に留まるように、
そして、私たちがそれを正確に自分の子どもに教えることができるように、
どうかお助けください!アーメン。
(関連聖句)「申命記」637