2011年11月30日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章16節より


 
人は律法の行いによっては義とされず、
イエス・キリストの信仰によって義とされることを知って、
私たちもまたキリスト・イエスを信じたのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」216節より)
  
神様は人間に対して怒りを鎮めてくださいました。
これは、人にとって高貴で偉大なことです。
神様の聖なる怒りを鎮めるためには、
モーセの律法や私たちの意志とは
まったく異なる仲介者が必要です。
さらに、彼らが「神の愛」と呼んでいる
あの類の恵みとも違うものが必要です。
私たちは、
信仰により心で受け入れたキリストという宝物を
自分のものとして所有しさえすればよいのです。
どれほどひどく自分が罪にまみれていることを
自覚している場合であっても、これは変りません。
このメッセージは含蓄に富んでいます。
律法の行いによってではなく、
キリストへの信仰によって義とされるということは、
空虚でも無力でもない御言葉です。
しかし、
自分の賢さを過信している人々は、
それを無力な言葉とみなし、
さっさとその前を素通りしてしまうのです。

2011年11月28日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヤコブの手紙1章12節より


 
試練に耐え抜く人はさいわいです。
(「ヤコブの手紙」112節より)
  
 
私の友よ、
主を待ち望み、主の守りに安心して信頼しなさい。
もしもクリスチャンとしての信仰を鍛える試練が何もないなら、
どれほど私たちクリスチャンが、
自分の罪深さを悲しまない、
怠惰で、安逸を愛する者に成り下がってしまうか、
あなたもよくお分かりでしょう。
試練がなければ、私たちには、
ローマ法王の教会で起きたのと同じことが起きるでしょう。
そうです、
試練はクリスチャンの薬であり、
乳香であり、アロエであり、
あらゆる害虫や皮膚病や疫病や体の怪我や汚れや罪に対する、
解毒剤なのです。
こういうわけですから、
私たちは試練を軽んじたり、
気の向くままに選り好みしてはいけないのです。
私たちは試練を、
神様が送ってくださる通りに、
そのまま受け入れなければなりません。
そうすれば、試練は、
それがどんなに大きかろうが、
どんな種類のものだろうが、
私たちに祝福と益をもたらすものになります。
   

2011年11月25日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 マタイによる福音書5章44節


私はあなたがたに言います、
「あなたがたの敵たちを愛しなさい。
そして、
あなたがたを迫害する者たちのために祈りなさい」。
 (「マタイによる福音書」5章44節)    
 
 
ここでは、
御言葉を聴く人と御言葉を説教する人とを区別しなければなりません。
御言葉を聴く人はいつも、
彼らを傷つけ迫害する人のために祈らなければなりません。
しかし、
御言葉を宣教する人は、
与えられている職務に従って懲罰し、
律法を説教しなければならない時があります。
同情心から叱らないでおくのは、正しい態度ではありません。
それにより、悪を支持することになってしまうからです。
福音を迫害し、自分が強いと思い込み、
福音を足蹴にする私たちの敵に対して、
「立派な方々、神様があなたがたの義しさと聖さに報いてくださるように」、
などと言ったり、
 彼らの悪行について沈黙を守り、
 彼らに屈服し、
 その足に口づけするようなら、
 私は悪を支持することになってしまいます。
 そうであってはなりません。
愛する友よ、
 噛まなければいけない時には、ちゃんと噛むことができるように、
 説教者の口には「歯」が必要です。
 真実を美化せずに公に伝えるために、
 説教者のメッセージには「塩」があるべきです。
もしも人々がその説教者の話を聴こうとしないなら、
 説教者は彼らに対して天を閉ざし、
 「地獄の火にふさわしい者よ」、と宣告するべきなのです。

2011年11月23日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 使徒の働き24章5節

  
この男は疫病のような存在で、
世界中のすべてのユダヤ人に対して騒ぎを巻き起こしており、
ナザレ人らの異端の先頭に立っている者であることが、
私たちにはわかりました。
(「使徒の働き」245節)
  
   
いたるところで次のような文句を耳にします、
「福音は平和をかき乱し、諍いを巻き起こしている。
福音が来てからというもの、何もかも昔より悪くなるばかりだ。
以前はあらゆる面で平穏と静謐に満たされていた。
迫害もなく、人々は皆互いに(少なくとも友人や隣人とは)
仲良く暮らしていたものだ」。
このような文句に対しては、次のように答えましょう、
「静かに平和に事が進むはずがありません。
福音の宿敵である悪魔が支配しているところでは、
それはありえないことです!」。
キリストがその福音によって悪魔の帝国を圧迫し続けておられる間は、
私たちも平和や安穏を期待してはいけません。
現在人々が取り戻したいと願っているあの以前の生活の平穏は、
本当に悲しむべきことでした。
そのような「平穏」は、
悪魔による支配とキリストの不在との確かな証拠だったからです。
しかし私は、
今人々が望んでいる通りに福音が私たちから取り去られて、
その「平穏」がいつか戻ってきてしまうのではないか、
と危ぶんでいます。
  
  

2011年11月21日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇32篇1節

 
咎が赦され、罪を覆われる人はさいわいです。(「詩篇」321節)
  
 
まったく罪がなかったり、何の罪も感じなかったりする人のことを、
私たちは真のクリスチャンとは呼びません。
そう呼ばれるにふさわしいのは、
キリストへの信仰のゆえに神様から罪を赦していただいた人です。
本当に苦しいときに、この教えは良心に安らかな慰めを与えてくれます。
キリストのゆえに人は罪赦され、義を「自分のもの」にしてよいと認められます。
クリスチャンは、とりわけ苦しいときには、
律法や罪とかかわりをもってはいけません。
このことを、私たちは無駄に繰り返し教えてきたわけではないのです。
クリスチャンであるならば、その人は律法と罪の上方にいます。
その人の心の中に、ちょうど指輪に宝石が埋め込まれているようにして、
律法の主なるキリストがとどまっておられるからです。
律法が責め立て、罪がおびえさせるときに、その人はキリストを見つめます。
その人がキリストを信仰によって理解しているなら、
律法と罪と死と悪魔に勝利し支配なさるお方がその人と共にいてくださるので、
それらがクリスチャンに危害を加えることはありえません。

2011年11月18日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙8章18節

 
今この時の苦しみは、
私たちに明らかにされる来るべき栄光にくらべれば、
取るに足りない、
と私はみなしています。
(「ローマの信徒への手紙」818節)
  
  
どんな反対を耐えなければならないとしても、
どんな十字架を担いでいかなければならないとしても、
それはすべて軽く好ましいものにかわります。
キリストが担わせるくびきは、私たちにぴったり合っており、
キリストがくださる荷は、軽いからです
(「マタイによる福音書」1130節)。
罪が赦され、
それによって良心の平安が与えられた今、
クリスチャンは他のあらゆることを容易に耐えることができます。
今や、すべてがクリスチャンにとって
心から好ましく喜ばしいものにかわっているからです。
それゆえクリスチャンは、
たとえ肉的にはさまざまな困難が伴うとしても、
霊的にはすべてを喜んで行い、すべてを耐えるのです。
ところが、人が自分の義によって生きる場合には、
すべての仕事や苦しみは、その人にとって
堪えようもないほど重く苦しいものにかわってしまいます。
その人はそれらのことを、やる気もなく嫌々ながら行うからです。

2011年11月16日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネの第一の手紙3章18節

 
子たちよ、
私たちは言葉や口によってではなく、
行いと真理によって愛そうではありませんか。
(「ヨハネの第一の手紙」318節)
 

私たちは、キリストを信じるようになったときには、
またよい行いについても、次のように学ぶようになります、
「あなたは信仰を通して、キリストを理解し、キリストをいただきました。
キリストを通して、あなたは義なのです。
ですから、あなたは行って、神様や隣人を愛しなさい。
神様に祈り、感謝し、神様を敬い、賛美し、その御名を告白しなさい!
よい行いをし、隣人に仕えなさい!
職務や地位に応じた義務を果たしなさい!」
恵みにより、キリストを通して、人が罪の赦しが受け入れるとき、
これら上に述べたことは、
信仰や真心からあふれでてくる本物のよい行いなのです。

2011年11月14日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 コリントの信徒への第一の手紙15章55節

 
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。
(「コリントの信徒への第一の手紙」1555節)
 
   
パウロはまるでこう言っているかのようです、
「死よ、お前の歯はどこにあるのか。
私の指でも噛みに来たらどうだ。
もっていた槍をどこに失くした。
そう、キリストがそれを取り去られたのだ。
お前のとげと力はどこに行った」。
ところで、「罪の力は律法である」、とパウロは言っています。
律法がはっきり知られるようになればなるほど、
それだけ罪は重くなり、痛く感じられます。
それゆえ、
「キリストは完全に死のとげを破壊してくださった」、
とパウロは言うのです。
このことをキリストは天国に持ち帰ったりはなさらず、
宣教を通じて世界中に広めるようになさいました。
そして、
キリストをこのような方として受け入れる人には、
槍が向かってくることもなく、
とげが待ち受けていることもなく、
その行く道には罪も死もありません。
これが、命と力を与えてくれる真の福音なのです。
ですから、キリストを正しく知るようになりましょう。
聖書によれば、義とは、キリストを正しく知ることにほかなりません。
 

2011年11月11日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙4章5節

 
悪人を義としてくださるお方を、
行いなくして信じる者に対して、
その信仰は義と認められるのです。
(「ローマの信徒への手紙」45節)
  

信仰と、キリストと、恵みを受けること(人が神様に認められること)、
この三つは互いに結びつけて理解されるべきです。
信仰は
「キリストが共にいてくださるお方である」と理解し、
キリストを「自分のもの」として受け入れます。
さらに信仰は、
ちょうど指輪に宝石が埋め込まれているように、
信仰の中にキリストがおられることを認めます。
このようにして心の中でキリストを信頼する人を、
神様は義とみなしてくださいます。
そしてこれは、
私たちが罪の赦しと義をいただける根拠であり報酬なのです。
神様はこう言われます、
「あなたは私を信じており、
あなたの信仰は、
私があなたに仲介者や大祭司として与えたキリストを、
ちゃんと理解しています。
それゆえに、あなたは義とされています」。
神様は、私たちを御自分の恵みの中に導いてくださいます。
すなわち、私たちを義と認めてくださいます。
それは、私たちがイエス様を信じているからです。

2011年11月9日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇94篇20節

  
法によって暴力を振るう、腐敗しきった裁定者は、
あなたと何の関係があるというのでしょうか。
(「詩篇」9420節)

 
何人かの頭の良すぎる愚か者たちは、
キリストとべリアルの間の意見の違いを調停するため、
「双方が妥協するべきだ」、と言います。
(中略)
彼らは、
あたかも悪魔が正しくて、キリストと意見が一致しているかように、
うまく見せかけることができる最初の連中になるでしょう。
しかし、そのような埋め合わせの作業は、
壊れたかめを張り合わせるようなもので、まったく愚かな試みです。
外に見える行いや儀式についてなら、
やろうとすれば調整できるかもしれません。
しかし、信仰やキリストの王国については、
神様はどのような改革や埋め合わせも望まれてはいません。
もしもそのようなことをやろうとすれば、
悪い結果を招くばかりで、しまいには完全に壊れてしまいます。

2011年11月7日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 イザヤ書53章12節

 
この方は多くの人々の罪を担われ、悪を行う者たちのために祈られました。
(「イザヤ書」5312節)
 
 
私たちはキリストが苦しまれた十字架を
他ならぬ「聖壇」とみなさなければなりません。
この聖壇でキリストは、
御自分のからだと霊とを私たちの罪のために捧げて、
苦しみの只中で祈られました。
それは、
キリストが御自分の牧師としての職務を証して、
私たちを恵みへと導き、罪から引き離し、
永遠の死から解放するためでした。
罪を取り除く方は、死をも取り除かれるのです。
パウロが教えているように、
死は罪の報酬です(「ローマの信徒への手紙」623節)。
罪がないところには、死も力を振るうことがありません。
死のないところには、悪魔や地獄もありません。
かわりにそこにあるのは、永遠の義と命と救いです。
キリストが十字架で、
御自分の犠牲と祈りによって、罪を取り去ってくださったいま、
死や悪魔や地獄は、私たちに対してもはや何の権威ももっていません。
(中略)
これは私たちの喜びであり慰めです。
私たちはそれについて心からキリストに感謝し、心を込めて宣教するべきです。
 

2011年11月3日木曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章16節


人は律法のわざによって義とされるのではなく、
イエス・キリストの信仰によって義とされることを、
私たちは知っています。
(「ガラテアの信徒への手紙」216節)
 
  
もしも救われたいのなら、
救いは行いのおかげではなくて、
私たちが御子を通して活きるようになるために
神様がその独り子を世に遣わされたおかげであることを覚えなさい
(「ヨハネの第一の手紙」49節)。
御子は十字架につけられ、あなたのために死なれました。
御子は私たちの罪を御自分のからだで担い、十字架の木へと運ばれたのです
(「ペテロの第一の手紙」224節)。
(中略)
律法は、罪人である私たちに対して罪を示し、おそれとへりくだりの心を起こし、
こうして私たちが義とされる用意を整えて、キリストの御許へと追い立てます。
神様は御言葉を通して御自分が優しい父親であることを知らせてくださいました。
神様は、私たちの行いなしに
(私たちは自分の行いによっては恵みの報いを受けることができないからです)、
キリストのゆえに、賜物として、
私たちに罪の赦しと義と永遠の命を与えたいと望んでおられます。
ただで恵みの賜物をすべての人に分け与えるのは、
賛美されるべき神様ならではの御性質なのです。
しかし、自分の行いに頼り、賜物を報酬として受け取ろうとする者は、
神様からその栄光を奪ってしまいます。
このような人々を信仰へ導くために、
神様はあらかじめ律法を与えなさったのでした。
それは、律法があたかも稲妻や雷鳴のように、
実に硬い「岩々」を恐れさせ、砕くためなのです。