2023年9月29日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」4章4節「新しい喜び」

 「新しい喜び」

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。

繰り返して言いますが、喜びなさい。 

(「フィリピの信徒への手紙」44節)

 

生きる力、仕事をする力、自分の十字架を背負う力を、

私たちはいったいどこから得るのでしょう。

これは大切な質問です。

人生はしばしば難しく感じられるものです。

人生の中で強い衝撃を受けたり、失望したり、

悲しんだりする人はたくさんいます。

生きる力はいったいどこから来るのでしょうか。

 

神様は私の祈りを聴いておられるのでしょうか。

私の抱えている難しい問題を心に留めてくださっているのでしょうか。

自分のような罪人の祈りを神様は聴かれないのではないか、

と思い込んでいる人は多いです。

しかしここで神様の素晴らしい次の約束を思い出しましょう。

 

「求めなさい、そうすれば与えられるでしょう。

捜しなさい、そうすれば見いだすでしょう。

門をたたきなさい、そうすれば開けてもらえるでしょう。」

(「マタイによる福音書」77節)

 

神様が私たちの祈りを聴いてくださっているのは確かなことです。

神様は毎日、ちょうどその日の必要に応じた力を賜ります。

私たちを持ち上げ、運び、救ってくださるのです。

 

こうして不毛な私たちの人生が再び花咲き始めます。

もう全部だめになったように見える時に、

神様は新しい希望と喜びをくださいます。

真に喜ぶべき理由が、新しい喜びの根拠が、イエス様の中にはあるのです。

 

神様は眠り込むことがありません。

いつも私の最善となるように配慮してくださっているのです。

神様の御手は疲れることを知りません。

神様の愛は冷えることがありません。

神様は聖なる洗礼において

私のことも御自分の子として受け入れてくださいました。

神様は私の面倒を見ておられます。

私に忠告を与え、手を取って導いてくださいます。

そして最後には、

私を天の御国の栄光の中へ取り込んでくださるのです。

 

(祈り)主イエス様、神様を愛する者たちにとっては

万事が益となるように働くことを

私が信仰をもって覚えられるように助けてください

(「ローマの信徒への手紙」828節より)。

アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」83139

2023年9月27日水曜日

「力なき者に力を」「ハバクク書」2章4節「自分自身の信仰」

「自分自身の信仰」  

義とされた人は、その信仰によって活きます。 

(「ハバクク書」24節)

 

信仰との個人的な関係について質問された時に、

キリスト信仰者である両親や祖父母のことを挙げる人もいれば、

配偶者の信仰心のことを挙げる人もいます。

しかし他の人の信仰のおかげで救われる人は誰もいません。

死ぬ時や最後の裁きの時に必要なのは、

家族や親戚など身近な人の信仰ではなく、

あなたを罪から贖ってくださったイエス様を

自分の救い主としてあなた自身が受け入れているということです。

 

親がキリスト信仰者である家庭で育ったとか、

洗礼を受けているとかいうことだけでは十分ではありません。

「マタイによる福音書」25章1〜13節に登場する賢い花嫁たちは

愚かな花嫁たちに自分の油を分けることができませんでした。

油を買いに行くには時すでに遅く、

婚礼会場の扉は閉じられ、

愚かな花嫁たちは外に取り残されたのです。

 

義とされた人は、その信仰によって活きます。

他の人の信仰によってではありません。

必要なのは自分自身の信仰なのです。

それはたんなる知識ではなく、福音の御言葉への心からの信頼です。

この福音の御言葉は、

イエス様があなたの罪のために死に渡され、

あなたを義とするために死者たちの中から復活なさったことを証しています。

聖霊様は福音の御言葉を真剣に聴く者なら誰にでもこの信仰を賜ります。

聖霊様は目の見えない人の目を見えるようにし、

神様に敵対する者を神様の友に変え、

死んだ者をよみがえらせます。

御霊は私たちの霊と共に、

私たちが神様の子どもであり天国を継ぐ者であることを

証してくださっています。 

 

(祈り)主よ、私は信じます。

あなたが世に来られるはずの方、神様の御子キリストであると私は信じます。

あなたが私の主であり神様であることを私は信じます。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」25113

2023年9月22日金曜日

「力なき者に力を」「創世記」4章7節「罪が待ち伏せしています」

 「罪が待ち伏せしています」 

「正しい事をしているのなら、顔をあげたらよいでしょう。

もし正しい事をしていないのなら、罪が門口に待ち伏せているのです。

その罪はあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

(「創世記」47節)

 

神様が自分の捧げ物に目もくれなかったことにカインは腹を立てました。

そして弟アベルを憎みました。

神様は弟の捧げ物を喜んでごらんになったからです。

このとき神様はカインに罪深いことをしないように警告なさいました。

罪は門口で待ち伏せしている獣のようなものだから、と。

 

このような「獣」は私たちの戸口にもいます。

どのような獣があなたに襲いかかろうとしているのでしょうか。

欲望でしょうか、怒りでしょうか、復讐心でしょうか、妬みでしょうか。

自己中心や傲慢という獣でしょうか。

こういった獣たちが今も待ち伏せしています。

もしもちゃんと治めなければ、それらはあなたに襲いかかってきます。


「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる」

と神様の御言葉は教えています(「ガラテアの信徒への手紙」67節より)


人は誰もこの決まりを変えることができません。

 

罪という待ち伏せする獣を治めることは神様の御言葉によってのみ可能です。

律法は私たちを自らの罪深さを知るようにさせ、

キリストの救いを慕い求めるように追い込みます。


私たちがキリストの十字架の死と復活のもたらしてくれたものを

信仰において自分自身の上にまとうとき、

罪はもはや私たちの肢体を支配することができなくなります。


もはや律法は私たちを呪うことができず、

地獄の力が私たちに及ぶこともありません。


主の御名は堅固な城となり、

義とされた者はそこに走り込み、安全にかくまわれます。

「私のもとに来る者を、私は決して外に投げ出したりはしません」

とイエス様は言っておられます(「ヨハネによる福音書」637節より)。

 

(祈り)主イエス様、あなたはその血によって

私たちを罪から解放してくださいました。

罪がもはや私たちを治めないように、

あなたの御言葉と血の力によってすべての悪に勝てるように、

どうか助けてください。

罪が待ち伏せしている時に、

いつもあなたの守りの中に急いで入れるように、

どうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」11832

2023年9月20日水曜日

「力なき者に力を」「民数記」10章29節「私たちと共に発ってください」

「私たちと共に発ってください」

さてモーセは、妻の父、ミデヤン人リウエルの子ホバブに言いました、

「かつて主があなたがたに与えると約束された所へと

私たちは前進しています。

あなたも一緒においでください。

あなたが幸いを得られるようにいたしましょう。

主がイスラエルに幸いを約束されたのですから」。

(「民数記」1029節)

 

家族ごと神様の選ばれた民に加わって

約束の地に向けて共に出発するようにと

モーセは義父ホバブを招待しました。

 

神様を信じる民は天国の故郷に向けて旅を続けています。

彼らはこの世の荒野の住人たちを共に出発するように招きます。

「すっかり用意が整っていますから、ぜひ来てください!」

という招きの声が今日もまた聞こえます。


罪人が救われるために必要なすべてのことを

神様は御子においてすでに成し遂げてくださっています。

罪は帳消しにされ、赦されました。

神様の恵みは全き賜物として私たちに差し出されているのです。

 

「私たちはあなたに幸いを提供します」

と主なる神様の教会は確言できます。

主御自身がイスラエルに大いなる幸いを賜ることを

約束してくださっているからです。


神様の教会には「恵みの手段」すなわち福音と洗礼と聖餐があります。

これらの手段を用いて神様の教会が

主の招きを受け入れた人々に与えてきた幸いなる救いの広大さは

人知ではとうてい測り知れません。

 

あなたはまだこの世の荒野の中で生活しているのですか。

共に旅に出ましょう!

神様の恵みの子たちの群れの中に加わるのをなぜためらっているのですか。

「主に祝福された者よ、中にお入りなさい!なぜ外に立っているのですか」。


もしも主イエス様が自分の救い主であることを信じ、

主の御言葉が真理であることを受け入れて、

この信仰を告白しているのなら、

あなたは主の御民の一員であり天国への旅人となっているのです。


「主がイスラエルに幸いを約束されたのですから、

あなたが幸いを得られるようにいたしましょう」。

 

(祈り)主よ、私はあなたの家を、あなたのお住いを、

あなたの栄光が留まる場所を愛しています。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」99

2023年9月15日金曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」13章5節より「妥協のない愛」

「妥協のない愛」

 愛は自分の益を求めません。

(「コリントの信徒への第一の手紙」135節より)

 

有名な「クォ・ヴァディス」という本の中で、ある人物が

「ギリシアは我々に学問を、ローマは法律を与えてくれた。

キリスト教は何をくれたというのか」と問うたとき、

もう一人の人物は「愛だよ」と答えました。


「神は愛なり」(「ヨハネの第一の手紙」416節より)という聖句は

聖書で最も短い箇所のひとつです。


そして「神様はその独り子を賜わったほどに、この世を愛してくださいました」

(「ヨハネによる福音書」316節より)という聖句は

聖書で最も愛されてきた箇所のひとつです。

 

真の愛は愛することがどのくらい高くつくかなどと自問しません。

例えばマリアはイエス様の足に高価なナルドの香油を塗った時、

その油の価値をお金に換算しませんでした。


真の愛は仕える愛であり、自分自身のことは忘却します。


真の愛は周りの賞賛を求めずに、地味な奉仕を続けます。


神様の愛が心に注ぎ込まれた時、愛に基づく行いは見返りを求めません。


「キリストの愛が私たちをそうさせるからです」

(「コリントの信徒への第二の手紙」514節より)。


両親は自分の子どもたちのために多くのやりたいことを諦めます。


愛は妥協せず、計算高くありません。

 

愛のゆえに神様はその独り子をも惜しむことなく、

私たちのために十字架の死に渡されました。

この最大の贈り物に加えてさらに

神様は私たちにほかのすべてもキリストと共に賜ります。


この愛は私たちが愛することを学ぶように教えてくれます。

愛は私たちが自分を犠牲にするように、

さらにはすべてを断念するようにさえ導いていきます。

愛は妥協せず、自分の益を求めません。


愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えます」

(「コリントの信徒への第一の手紙」137節)。

  

(祈り)愛の神様、私たちの心に愛を注いでください。

「忍耐強く、優しく、ねたむことをしない、高ぶらない、誇らない、

不作法をしない、自分の益を求めない、恨まない、

(自分の受けた)悪を覚えない」愛をお与えください

「コリントの信徒への第一の手紙」1345節より)

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」13

2023年9月13日水曜日

「力なき者に力を」「列王記下」6章16節 「恐れることはありません」

 「恐れることはありません」


「恐れることはありません。

我々と共にいる方たちは、彼らと共にいる者たちよりも多いからです」

とエリシャは言いました。

(「列王記下」616節)

 

敵が町を包囲した時、預言者エリシャの従者はおびえて、

「ああ、わが主よ、私たちはどうしたらよいのでしょうか」

エリシャに尋ねました

しかし預言者は冷静かつ勇敢でした。

「恐れることはありません。

我々と共にいる方たちは彼らと共にいる者たちよりも多いからです」

と確信に満ちて言ったのです。

 

私たちにはこのエリシャの従者に似たところがあります。

危険が間近に迫ると勇気を失ってしまうのです。

私たちは自分たちをおびやかす可能性のあるもののことを恐れ、

また実際におびやかすもののことをも恐れています。


「ああ、私たちはどうすればよいのでしょうか」。


悪魔が私たちを包囲しており、

ついには私たちが死に向き合わなければならない瞬間もあります。

私たちはどうすればこの圧倒的に強力な相手と戦うことができるのでしょうか。

 

「もし神様が私たちの味方であるなら、

いったい誰が私たちに敵対できましょうか 

(「ローマの信徒への手紙」831節より)

と主の使徒パウロは私たちに教えています。


私たちと共にいてくださる方たちのほうが

(私たちに敵対する)彼らと共にいる者たちよりも本当に多いのです。

イエス様が私たちと共にいてくださるので、

私たちは立派に勝利を収めることができます。

イエス様は罪と死と地獄に対して勝利なさいました。

私たちはイエス様を信じつつ、

十字架から始まる歩みを喜びつつ進めていきます。

そして自分が傷つき倒れたと思えるような時にも、

この勝利の行進は続いているのです。

「勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っています」

とイエス様は声をかけてくださいます

(「ヨハネによる福音書」1633節より)。

 

(祈り)神様は私たちにとって

守りであり、力であり、困った時の強い助けです。アーメン。

(関連聖句)「列王記上」61223

2023年9月6日水曜日

「力なき者に力を」「イザヤ書」55章2節より「まちがい番号」

「まちがい番号」

 

なぜ、あなたがたは

糧(直訳は「パン」)にもならぬもののために金銭を費し、

満足を与えないもののために労苦するのですか。

(「イザヤ書」552節より)

 

電話をかけようとして誤った電話番号を押してしまう場合があります。

神様に連絡しようとする時にも、

人々はしばしば間違った「番号」を選んでしまいます。

それでは連絡できません。

 

カルメル山でバアルの預言者たちは

これでもかと言わんばかりに声を張り上げて

「バアルよ、我々に答えてください!」と叫びました。

「ところが、なんの声もなく、答えもなく、また顧みる者もいませんでした」

(「列王記上」182629節)。

 

彼らとは異なり、預言者エリヤは天の御国に連絡することができました。

そして神様は他を圧倒する方法で彼に応答してくださったのです。

 

多くの人々は神様に連絡が取れないままでいます。

彼らは自分たちの行いの報酬として罪の赦しを得ようとします。

彼らは導きや慰めや安全を

自分自身の考えや不信仰な思想から見つけ出そうとします。

彼らは満足を与えてくれるものを探し求めます。

しかし真の満足を与えてくれるものは

この世的な価値や娯楽からは決して見つかりません。

彼らは栄養にならないもののためにお金を使っているのです。

 

それに対してキリスト信仰者は

聖なる御言葉を通して神様に連絡できることを知っています。

それゆえに「神様は聴いて答えてくださる」という確証を得るのです。

「私の名をもって唱えられる私の民が、

もしもへりくだり、祈って、私の顔を求め、

その悪い道を離れて戻ってくるならば、

私は天からそれを聴いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒す」

(「歴代誌下」714節)。

 

(祈り)

主よ、どうか御霊と真理の中で祈れるように私たちを導いてください。

あなたのお命じになることを愛し、

あなたの約束なさることを望むという恵みを

どうか私たちにお与えください。

そしてその恵みによって、イエス様のゆえに

私たちの祈りがいつもあなたに受け入れていただけるものとなりますように。

アーメン。

(関連聖句)「列王記上」182139