2016年10月24日月曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ミカ書」4章1、3b節(その3)

終わりの日々には、
主の家の山は山々のかしらとして堅く立ち、
どの丘よりも高くあります。
そして、諸国民がそこへ押し寄せます。
(中略)その場所で彼らは剣を鋤に、槍を鎌に作り変えます。
国民は他の国民に向かって剣を上げず、
これから先は戦争を起こしたりしなくなります。
(「ミカ書」413b節)(その3)


この世で「平和」と言えば、
せいぜい外面的なことがらだけを意味しています。
飲み食いし、歌い踊り、放縦な生活を送れることが
すなわち平和である、
と言われたりします。
しかし、キリスト教信徒の平和は心の中にあります。
彼らがたとえ外面的には
激しい迫害や辛苦や窮乏や逆境などを
耐えなければならない場合であっても、
この心の平和はなくなりません。

平和があなたの後ろからやってくる、
などとは考えないようにしてください。
実際には逆に、
怒りや争いや復讐が後ろから迫ってくるので、
あなたは、悪に対して悪をもって報いてやれ、
という気になるでしょう。
しかし、あなたはそれとは反対のやり方をしなさい。
自ら平和を求め、耐え、なしうることを行いなさい。
自分にとってはそれがどんなに辛くても、
あなたは平和を求めるべきだし、それを追求していくべきなのです。

2016年10月14日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ミカ書」4章1、3b節(その2)

終わりの日々には、
主の家の山は山々のかしらとして堅く立ち、
どの丘よりも高くあります。
そして、諸国民がそこへ押し寄せます。
(中略)その場所で彼らは剣を鋤に、槍を鎌に作り変えます。
国民は他の国民に向かって剣を上げず、
これから先は戦争を起こしたりしなくなります。
(「ミカ書」413b節)(その2)


人が他の人に不正を行うとき、
不正を働いた人の頭を殴ることが「平和」であると、
この世では思われています。
しかし、そのようなやり方では平和は決して実現しません。

(中略)平和を正しく探し求め、見出したい人は、
悪に背を向け善を行うべきです。
それはこの世の道とは異なるもうひとつの道です。
悪に背を向け善を行う、とは、
悪い言葉を故意に聞き流し、
また悪と不正には目を向けない、
ということです。

あなたは平和を求めなさい。
そうすれば、
あなたの敵がすべてをやり尽くして、冷静になるときに、
あなたは平和を見出すでしょう。
敵が荒れ狂っているときに、あなたがそれを聞き流し、
逆に相手に対してののしり返したり荒れ狂ったりしなければ、
じきに敵は怒りを鎮めるほかなくなります。
そのようにしてキリストも十字架上で敵に勝利なさったのです。

2016年10月7日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ミカ書」4章1、3b節(その1)

終わりの日々には、
主の家の山は山々のかしらとして堅く立ち、
どの丘よりも高くあります。
そして、諸国民がそこへ押し寄せます。
(中略)その場所で彼らは剣を鋤に、槍を鎌に作り変えます。
国民は他の国民に向かって剣を上げず、
これから先は戦争を起こしたりしなくなります。
(「ミカ書」413b節)(その1)
 
私たちは平和な時代には
生命、妻、子供、家屋敷、手足や目など身体の各部、健康、自由などを
保つことができます。
私たちは平和という防壁の中で安心できます。
平和があるところでは、
天の御国がすでに半ば実現しているのです。


平和という恩恵は、
(防壁に囲まれた)都市の中だけが安全だというのではなく、
田舎でものどかで生活しやすい環境が整い、皆が安心して道を歩いたり、
畑を耕したり、苗を植えたり、放牧したりして、
各自が自分の生業に専念できる、ということです。

正直で頼りになる隣人の存在も平和の実のひとつです。
このような隣人がいるということは地上最大の恵みの賜物のひとつです。
彼らからはよい助けをいつでも期待できるし、
平和を実現するために彼らの存在は、
鉄の壁に囲まれた都市を世界中の軍隊が警護している場合よりも
確固とした基盤となります。

力ずくで押さえつける支配のほうが
相互の友好関係に基づく支配よりも強固だと考えるのは
まったくの間違いである、と私は思います。
暴力で強制しても長続きはしないものです。