2023年1月19日木曜日

「力なき者に力を」「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章17節 「絶えず祈りなさい」

 「絶えず祈りなさい」

 絶えず祈りなさい。

(「テサロニケの信徒への第一の手紙」517節)

 

絶えず祈ることは不可能ではないでしょうか。

朝から晩まで祈っていることなどできるものではありません。

仕事はしなければならないし、

食べることも眠ることもしなければなりません。

趣味の時間をもつ必要もあります。

 

しかしある意味では、

私たちは祈るのを決して止めるべきではないとも言えます。

もしも私たちが神様と和解した上で生活しているのなら、

神様からいただいたよいものについて

いつも感謝しながら神様の助けを求める思いを抱くものです。

罪に落ち込んでしまった場合には、

神様に罪の赦しをいただけるようにすぐさま祈り願うことでしょう。

別の言い方をするならば、

神様が現実の私たちの生活の中に共にいてくださるので

私たちはいつでも「恵みの御座」に急ぐことができるのです。

そういう時に私たちは絶えず祈っていることになります。

 

祈りは呼吸に似ています。

生きている人間は息をしています。

神様から命をいただいた私たちが

常に神様とつながっているのは自然なことです。

神様にあって私たちは生き、動き、存在しています。

 

祈る際にはいつも手を組んだりひざまずいたりしなければならない

というわけではありません。

声に出して言う必要さえありません。

神様が共におられるという事実が私たちの心を満たしてくれます。

私たちは絶えず神様とつながっていることを望みます。

その時、私たちは絶えず祈っているのです。

ですから、いつもこのように祈ろうではありませんか。

 

(祈り)

主よ、どうか私に祈る力と意志をください。

口先だけではなく魂全体が心の底から叫ぶようになるために、

微弱な祈りのため息にも天の恵みを贈ってください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの福音書」17

2023年1月13日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの第一の手紙」5章14節「主の御旨のままに」

 「主の御旨のままに」

 私たちが神様に対して抱いている確信とは、

私たちが何事でも神様の御旨に従って願い求めるなら

神様はそれを聴き入れてくださるということです。

(「ヨハネの第一の手紙」514節)

 

神様が私たちのすべての祈りに応答することを約束なさるとき、

それは私たちの願い事すべてにあてはまるのでしょうか。

そうではありません。

神様は私たちをあまりにも深く愛しておられるので、

私たちが浅はかな思いで願うことを私たちにお与えにならないのです。

父親も母親も我が子に害となるようなものは与えません。

 

最も聖なる意味で私たちのためになり御旨にもかなうことを

神様は私たちに賜ります。

私たちの祈りに対して神様は御自分で選ばれた時と方法によって応答なさいます。

 

神様の時計は私たちの時間とは違います。

神様の御意思は私たちの意思とは異なります。

しかし神様の御意思は常によきものです。

 

私たちに独り子を賜った神様は

私たちがイエス様への信仰を通して救われることを望まれています。

それゆえに神様はいつでも私たちにとって最もよいことを行ってくださるのです。

私たちはいつも神様の御心を理解できるとはかぎりません。

それでも神様に信頼してよいのです。

神様はその御子を私たちのために犠牲としてくださったのですから、

御子と共にその他のことも私たちに賜ります。

 

(祈り)

主よ、あなたは私たちの必要を、私たち皆に欠けていることをご存知です。

私たちが今困っていることは、一番小さいことも一番難しいことも、

あなたの知るところとなっています。

主よ、あなたは憐れみに欠けた方ではありません。

あなたは御父の心をおもちだからです。

だからこそ私たちは確信をもてるのです。アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」1279

2023年1月10日火曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」15章27節「祈るための教え」

「祈るための教え」

 

するとその女の人は

「主よ、おっしゃるとおりです。

でも、小犬たちも

その御主人様たちの食卓から落ちるパンくずはいただくものです」

と言いました。

(「マタイによる福音書」1527節)

 

カナンの女の人の信仰を試されてから

イエス様は彼女が願ったものをお与えになりました。

私たちが必要としているものを神様に祈り願うとき、

神様はいつもすぐにそれに答えてくださるとはかぎりません。

信仰が弱っている人は

「神様は聴いてくれない」とか

「神様は与えてくれない」などと疑ってしまいます。

信仰が強められた人は

神様が必ず私たちの願いを聴いてそれをかなえてくださることを知っています。

主がなかなか助けてくださらない時にこそ私たちの信仰は試されるのです。

 

とはいえ、

しつこくねだりさえすれば神様からなんでももらえる、

などという思い違いをしてはいけません。

祈りは神様の御心にかなうものでなければならない

ということを覚えておかなければなりません。

子どもは自分のためにならないものを親にねだることがしばしばあります。

これは私たちにもあてはまります。

天の父なる神様は大いなる恵みのゆえに

私たちが願うものを与えてくださらないことがたしかにありますが、

その場合には、

私たちにとってもっとよいものをもっとたくさん与えてくださるのです。

 

神様には私たちの祈りに対して三つの答え方があります。

それは「いいですよ」、「だめです」、「まだです」というものです。

ですから、

私たちが期待していたとおりに神様が与えてくださらなかったからといって

「神様は私たちの祈りを聴いてくれなかった」

などと言うべきではないのです。

むしろ「だめです」とか「まだです」という神様の答えに

感謝しようではありませんか。

 

(祈り)

恵みに対して私はその分量を定めることはもちろんできないし、

またそうしたいとも思いません。

ですから天の父なる神様、

どうかあなた御自身が時を定めて、

あなたが望まれるものをお与えください。

私の願いがかなえられない場合には、

御名の栄光となるよりよいものをどうか私にお与えください。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」152128