2012年4月30日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書6章36節


 
あなたがたのお父様が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい。
(「ルカによる福音書」636節)
 
  
神様は私に対して善い憐れみ深いお父様です。
私はこのことを覚えて自分の心を落ち着かせ、
それから隣人に対して憐れみを示すべきです。
なぜなら、私は
自分の信仰を内側へ、
自分の行いを外側へ、隣人へ
向けるべきだからです。
これをアブラハムは実行しました。
神様の命られた犠牲をささげるためにモリヤの山に登ったときに、
アブラハムは召使とロバを山のふもとに残し、
息子のイサクのみを連れていきました(「創世記」225節)。
私たちも同じようにしなければなりません。
神様との関係においては、私たちは「イサク」のみを同行させるべきです。
それは、信仰をもってキリストと共に行くということです。
しかし、「召使やロバ」、すなわち行いは山のふもとに残しておくべきです。
私たちの天の父なる神様は、どのように憐れみ深いお方なのでしょうか?
神様は私たちに肉体的にも霊的にも必要なすべてのものを、
一時的に必要なものや永遠に必要なものを、
「賜物」として、まったくの善性によって与えてくださいます。
もしも神様が私たちの行いに基づいて報酬を与えなければならないとしたら、
神様は私たちに地獄の火と永遠の滅びを与えるほかないからです。
神様が私たちに財産や名誉などを与えてくださるのは、純粋な恵みです。
神様は私たちが死につきまとわれている状態を見て、憐れに思い、
私たちに命を与えてくださるのです。
神様は私たちが地獄の子であるのを見て、かわいそうに思い、
私たちに天国を与えてくださるのです。
神様は私たちが裸でお腹をすかせ喉が渇いているのを見て、
私たちに服を着せ、食べ物を与え、あらゆる贈物によって養って、
私たちを憐れんでくださるのです。
それゆえにキリストは、
「あなたがたは自分のお父様に倣いなさい。
そして、お父様が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい」、
と言われているのです。
  

2012年4月27日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書15章5節


 
そして見つけたら、
喜びながらそれ(迷子になった羊)を自分の両肩の上に載せます。
(「ルカによる福音書」155節)
   
 
もしも羊飼いが常に助言を与え導いてくれなければ、
羊は自分の世話をすることも、
迷子にならないように気をつけることもできません。
さまよっている羊は羊飼いを見つけることもできません。
羊飼いが羊を探しに行かなければならないのです。
迷子になっていた羊を見つけると、
今度は、その羊が羊飼いのもとから脅され追い出されて
狼の餌食になったりしないように、
羊飼いはその羊を両肩に乗せて運びます。
実は、私たちもこの羊と同じような存在です。
私たちは自力で自分を助けることもできません。
キリストが御言葉によって
私たちを信徒の群れへと連れ戻してくださらなければ、
どうすれば良心に平穏が得られ、
悪魔や死や地獄の支配から解放されるか、わかりません。
たとえ私たちがキリストの御許に来て信仰に留まったとしても、
キリストが常に変わらない御言葉や力によって
私たちを強め運んでくださらなければ、
私たちは自分で自分を保つことなどできません。
なぜなら、悪魔が絶えずいたるところで私たちの隙をうかがっており、
「ほえたけるししのように、
誰を飲み込もうかとさがしながら歩き回っている」
(「ペテロの第一の手紙」58節)からです。
ですから、ここでは私たちの自由意志とか力などというものを、
いかなる場合であれ誇るべきではありません。
私たちの羊飼いなるキリストが
おひとりですべてを成し遂げられることになっているからです。
「イエス様は、私たちのために死んで、私たちの罪を十字架でそのからだに担い、
悪魔や死や罪をその足元に踏みつけ、私たちを永遠の命へと連れて行かれる」、
というメッセージを、キリストが私たちに説教なさるときに、
このことは成就します。
キリストは私たちがこの世で生きていく間ずっと私たちを運んでおられるので、
私たちは自分がどれだけ義しくまた強いか、
などと自分の生活を省みなくてもよいのです。
私たちに必要なのは、キリストの両肩の上で休むことだけです。
   

2012年4月25日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙3章9節


 
このように信仰による者は信仰者アブラハムと共に祝福を受けるのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」39節)
  
 
この御言葉は、「信仰者アブラハムと共に」、ということを強調しています。
ここではアブラハムが二つに分けられています。
ひとりのアブラハムはわざを行い、もうひとりのアブラハムは信じています。
わざを行うアブラハムと私たちは何のかかわりもありません。
もしもアブラハムが行いによって義とされたなら、
彼は自分を誇ることができるでしょうが、
神様の御前ではそうではありません。
私たちは信仰者アブラハムを誇ります。
「このアブラハムは信仰によって、
自分にも、自分と同じように信じている者皆にも、義なる祝福を得た」、
と聖書は証しています。
もしもアブラハムのように信じるのなら、全世界が祝福されるのです。
言い換えれば、自分自身が義と認められるのです。
祝福とは、福音を宣べ伝えて教え、キリストを告白し、
すべての国民にキリストについて知らせることにほかなりません。
そして、この牧師としての奉仕(説教職)は
新約聖書の教会の真のささげものです。
この奉仕は、
説教とサクラメントによって、
ざんげと罪の赦しの宣言によって、
慰めによって、
アブラハムが自分の祝福としてもっていた
「恵みの御言葉」を教えることによって、
祝福を分けてくれます。
この「恵みの御言葉」をアブラハムは信じ、祝福を受けました。
私たちもそれを信じて、祝福をいただけます。
この祝福は、世に対してではなく、神様の御前における栄光です。
なぜなら、
「私たちの罪は赦されており、
私たちは神様に喜んで受け入れていただける存在になっています。
神様は私たちの御父様、私たちは神様の子です。
神様は御自分の子たちに怒りたいとは思われません。
逆に、罪や死やあらゆる悪から私たちを救い出したいと望んでおられ、
私たちに義と命と永遠の救いを贈ることを望まれている」、
ということを私たちは聴いているからです。
 

2012年4月23日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 テモテへの第一の手紙1章9節より



律法は義なる人のために定められてはいません。
(「テモテへの第一の手紙」19節より)
  

「もしも私に絶えず罪がある場合には、それは正しくないことでしょう?」。
答え。
「そう、私は罪人で悪いことをしているけれど、
こんな疑問を抱いたり、地獄へと急いだり、
律法から逃げてみたところで、何も始まりません。
私のためには、モーセよりもさらに上方にある「みわざ」があります。
それによって私は、「私をつかまえてくださった方」につかまります。
私は、
「私を洗礼において受け入れて、抱きかかえ、
福音を通して「御自分のもの」にあずからせ、
御自分を信じるように命じておられるお方」
にしっかりとつかまります。
この方がおられる御許から、
ファリサイ人、モーセや十戒、
律法学者全員と彼らの書物全部、
全人類とそのあらゆる行いが黙って退去するように、
彼らに命じなさい。
この方の御許では、
たとえ私がするべきことをしなかった場合でも、
律法には私に対して責めたり要求したりする権利はまったくありません。
私は、自分に欠けているすべてのものを、
キリストにおいて豊かにいただいているからです」。
まとめると、こうです。
「外なる人」(「生身の人間」)の上に
あまり重すぎるものを載せすぎてはいけないし、
無理やり担がせてもいけません。
とりわけ「良心」の上には、一切何も載せてはいけません。
なぜなら、
キリストを私たちにもたらす御霊のおられる御許では、
人はあらゆる律法の上方にいるからです。
パウロが、
「律法は義なる人のために定められてはいません」、
と言っている通りです。
  

2012年4月20日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書15章2節

  
すると、ファリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、
「この人は罪人を迎え入れて、一緒に食事までしている」、
と言いました。
(「ルカによる福音書」152節)
  
 
律法の要求を満たしていないことを自覚しているときに、
律法が襲いかかってきて
私の良心を苦しめる場合にはどうすればよいのでしょう?
答え。
キリストがどのようになさっているか、ごらんなさい!
キリストは、律法が神様のご命令を含んでいるにもかかわらず、
律法の攻撃には決して取り合おうとはなさいません。
あなたも同じように、律法に対して次のように言えるようになりまさい、
「愛する律法よ、私を責めたてるのはもうやめてどこかに行きなさい。
私は今お前とは何のかかわりもないからだ。
私がどれほど義しいか、お前は私と話し合い聞きただしたいと思っている。
だからこそ、私はお前のことを聞きたいとは思わない。
なぜなら、
「私はどんなものであり、何をするべきで、何をやるべきではないか」
などには気を止めず、
「キリストはどのようなお方であり、何を与え、何をなさるか」
ということにこそ注目なさる裁き主の御前で、
私たちは今応酬しあっているからだ。
私たちは今花嫁の部屋にいる。
そこにいてよいのは花嫁と花婿だけのはずだ。
そこへお前のようなものが入ってきて、話しかけたりしてはいけないのだ」。
しかし、この忠告を無視して、
律法は部屋の戸をドンドンとたたきつづけてこう言います、
「そのとおりだ。
しかし、もしも救われたいのなら、
お前はよい行いをして神様のご命令を守るべきだ」。
答え。
「今の問題はそれとはちがう問題だ、ということを聞いたことがないのか。
何の行いもなしに、主キリストにあって、私には義やすべての救いがある。
お前が来るより遥か以前から、私は救いの喜びにあずかっているので、
救われるために律法などは必要ないのだ。
すでに言ったように、
行いに何の価値もないところでは、律法にも何の意味もない。
そして律法のないところには罪もない。
それゆえ、良心を支配するのは、
奥の部屋でキリストとともにいる花嫁だけである。
彼らはすべてを共有しており、
花嫁には救われるために必要なもので欠けているものは何もない」。

2012年4月11日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙4章18節

 
アブラハムは希望がなかったにもかかわらず、希望をもちつづけました。
(「ローマの信徒への手紙」418節)
  
 
私たちは「キリストの肉(身体)」という
至聖所の垂れ幕の守りの中に生きています。
この垂れ幕は私たちにとって、
昼間は雲の柱、夜は火の柱になっているので、
神様は私たちの罪をごらんにはなりません(「出エジプト記」40章)。
たとえ自分の罪がつい目に付いてしまい良心がおびえたとしても、
いつでも私たちの仲介者、仲裁者なるキリストの守りの中へ急いでいけば、
私たちは救われます。
このキリストを通して、私たちは完全無欠なのです。
キリストにはすべてがあるように、
私たちにもキリストにおいてすべてがあるからです。
このように信じるとき、神様は、
私たちの中にまだ残っている罪の廃物に対して目をつぶり、
あたかもそれが存在しないかのように覆い隠してくださいます。
神様は言われます、
「あなたは私の御子を信じているので、
あなたの中にまだ残っている罪は赦されています。
そして、最終的には死を通してそれから完全に解放されます」。
しかし、あなたはこう言うでしょう、
「自分の中に罪がありそれを感じている私のような者が、
どうして義であり聖でありうるでしょうか?」。
あなたが自分の罪を知り、それを感じているのはよいことです。
それについて神様に感謝し、絶望に陥らないようにしなさい。
健康になる第一歩は、病人が自分の病気を知り、それを告白することです。
しかし、どうすれば罪から解放されるのでしょうか?
お医者様キリストのみもとに急ぎなさい。
キリストは打ち砕かれた心を癒し、罪人を救ってくださいます
(「詩篇」1473節)。
「キリストは罪人に対して怒っているぞ」
などと言ってくる理性に惑わされてはいけません。
理性を殺して、キリストを信じなさい。
こうすれば、あなたは助けを受け、義とされ、聖なのです。
なぜなら、あなたはキリストに、
全能でいつくしみ深く真実に満ちたお方としての栄光を帰しているからです。
「神様は義であられる」とあなたは告白し、神様を賛美します。
言い換えれば、
あなたは神様に神性およびすべてのものが属することをを告白するのです。
あなたの中にまだ残っている罪は、あなたに対して罪とは認められません。
それは、あなたが信じているキリストのゆえに赦されます。
キリストは完全に義なるお方です。
そして、その義はあなたのものであり、あなたの義はキリストのものです。
 

2012年4月4日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙4章18,22節

 
アブラハムは
希望がなかったにもかかわらず、
希望をもちつづけました。
そして、
「あなたの子孫はこのようになる」
と言われた言葉に従って、
自分が多くの国民の父となることを信じました。
(・・・)
それゆえ、彼は義と認められたのです。
(「ローマの信徒への手紙」41822節)
 

聖書の読者は、
「アブラハムは神様を信じた」という御言葉から、
キリスト教における「義」とは何か、
明確に定義することを学びなさい。
義とは、
神様の御子に避けどころを求めること、
すなわち、
キリストを通して神様に心から信頼することです。
さらに、
神様に避けどころを求めることに、
キリストのゆえに義と認められることを加えましょう。
このふたつは、
キリスト教における義を完全なものとして提示します。
第一に、
心の信仰とは、
神様の与えてくださった賜物であり、
キリストを本当に信じることです。
第二に、
神様はいろいろな点で至らない私の信仰を、
私が信じるようになったイエス・キリストのゆえに、
完全な義と認めてくださいます。
 
私は
本当に自分が神様に愛されているのか疑ったり、
絶望したり、悲しんだりするし、
私の中にはまだ罪が染み付いています。
しかし、
これらの罪を、神様は、
私のキリストへの信仰のゆえに、
私の罪過とはみなされません。
なぜなら、
肉(肉体)の中に生き続ける限り、
罪は本当に私の中に存在しつづけるからです。
しかし、
ちょうどひなが親鳥の羽に守られているのと同じようにして、
私はキリストの羽の下に隠されており、
罪の赦しという、
とりわけ大きく私の上方に広げられている天の下に
安心して住まっているので、
神様は
私の中にまだ残っている罪を覆って赦してくださいます。
   

2012年4月2日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙3章6節

 
アブラハムは神様を信じ、
それによって、彼は義と認められたのと同じように。
(「ガラテアの信徒への手紙」36節)
  
 
アブラハムのように
神様の御言葉を信じる者は皆、神様の御前で義です。
なぜなら、
その人には神様に栄光を帰する信仰があるからです。
信仰は、
この世のいかなるものも殺すことができなかった
「理性」という名の怪物を死に至らせます。
アブラハムは、
「年老いた不妊の妻サラを通して子孫を起こす」
という約束を彼に与えてくれた神様の御言葉への信仰によって、
理性を殺しました。
アブラハムの理性は、
すぐにはこの御言葉を素直に聴き入れようとはせずに、
心の中で信仰に対して戦いを挑んだことでしょう。
そして、
もう90歳にもなっている、しかも不妊のサラが
男の子を産むなどというのは、
笑ってしまうほど愚かで不可能なことだと思ったでしょう。
しかし、
アブラハムの信仰は理性に対して勝利を収め、
まわりに害を撒きちらすこの一番やっかいな「神様の敵」を殺しました。
それと同様に、
義なる人たちは皆、
信仰という秘められた世界へと足を踏み入れて、
理性を殺してこう言います、
「理性よ、お前は愚かだ。
神様に属する人たちのことをお前は全然理解していない。
もうこれ以上私と争うな。
黙っていろ。
批判せずに、神様の御言葉を聴き、それを信ぜよ」。
こうして義なる人たちは、
信仰によって全世界よりも強大なこの怪物を殺します。
そうして彼らは、
神様にあらゆるものなかで最も喜ばしいささげものと礼拝をささげるのです。