あなたがたのお父様が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい。
(「ルカによる福音書」6章36節)
神様は私に対して善い憐れみ深いお父様です。
私はこのことを覚えて自分の心を落ち着かせ、
それから隣人に対して憐れみを示すべきです。
なぜなら、私は
自分の信仰を内側へ、
自分の行いを外側へ、隣人へと
向けるべきだからです。
これをアブラハムは実行しました。
神様の命られた犠牲をささげるためにモリヤの山に登ったときに、
アブラハムは召使とロバを山のふもとに残し、
息子のイサクのみを連れていきました(「創世記」22章5節)。
私たちも同じようにしなければなりません。
神様との関係においては、私たちは「イサク」のみを同行させるべきです。
それは、信仰をもってキリストと共に行くということです。
しかし、「召使やロバ」、すなわち行いは山のふもとに残しておくべきです。
私たちの天の父なる神様は、どのように憐れみ深いお方なのでしょうか?
神様は私たちに肉体的にも霊的にも必要なすべてのものを、
一時的に必要なものや永遠に必要なものを、
「賜物」として、まったくの善性によって与えてくださいます。
もしも神様が私たちの行いに基づいて報酬を与えなければならないとしたら、
神様は私たちに地獄の火と永遠の滅びを与えるほかないからです。
神様が私たちに財産や名誉などを与えてくださるのは、純粋な恵みです。
神様は私たちが死につきまとわれている状態を見て、憐れに思い、
私たちに命を与えてくださるのです。
神様は私たちが地獄の子であるのを見て、かわいそうに思い、
私たちに天国を与えてくださるのです。
神様は私たちが裸でお腹をすかせ喉が渇いているのを見て、
私たちに服を着せ、食べ物を与え、あらゆる贈物によって養って、
私たちを憐れんでくださるのです。
それゆえにキリストは、
「あなたがたは自分のお父様に倣いなさい。
そして、お父様が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい」、
と言われているのです。