2012年4月20日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書15章2節

  
すると、ファリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、
「この人は罪人を迎え入れて、一緒に食事までしている」、
と言いました。
(「ルカによる福音書」152節)
  
 
律法の要求を満たしていないことを自覚しているときに、
律法が襲いかかってきて
私の良心を苦しめる場合にはどうすればよいのでしょう?
答え。
キリストがどのようになさっているか、ごらんなさい!
キリストは、律法が神様のご命令を含んでいるにもかかわらず、
律法の攻撃には決して取り合おうとはなさいません。
あなたも同じように、律法に対して次のように言えるようになりまさい、
「愛する律法よ、私を責めたてるのはもうやめてどこかに行きなさい。
私は今お前とは何のかかわりもないからだ。
私がどれほど義しいか、お前は私と話し合い聞きただしたいと思っている。
だからこそ、私はお前のことを聞きたいとは思わない。
なぜなら、
「私はどんなものであり、何をするべきで、何をやるべきではないか」
などには気を止めず、
「キリストはどのようなお方であり、何を与え、何をなさるか」
ということにこそ注目なさる裁き主の御前で、
私たちは今応酬しあっているからだ。
私たちは今花嫁の部屋にいる。
そこにいてよいのは花嫁と花婿だけのはずだ。
そこへお前のようなものが入ってきて、話しかけたりしてはいけないのだ」。
しかし、この忠告を無視して、
律法は部屋の戸をドンドンとたたきつづけてこう言います、
「そのとおりだ。
しかし、もしも救われたいのなら、
お前はよい行いをして神様のご命令を守るべきだ」。
答え。
「今の問題はそれとはちがう問題だ、ということを聞いたことがないのか。
何の行いもなしに、主キリストにあって、私には義やすべての救いがある。
お前が来るより遥か以前から、私は救いの喜びにあずかっているので、
救われるために律法などは必要ないのだ。
すでに言ったように、
行いに何の価値もないところでは、律法にも何の意味もない。
そして律法のないところには罪もない。
それゆえ、良心を支配するのは、
奥の部屋でキリストとともにいる花嫁だけである。
彼らはすべてを共有しており、
花嫁には救われるために必要なもので欠けているものは何もない」。