2012年4月27日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書15章5節


 
そして見つけたら、
喜びながらそれ(迷子になった羊)を自分の両肩の上に載せます。
(「ルカによる福音書」155節)
   
 
もしも羊飼いが常に助言を与え導いてくれなければ、
羊は自分の世話をすることも、
迷子にならないように気をつけることもできません。
さまよっている羊は羊飼いを見つけることもできません。
羊飼いが羊を探しに行かなければならないのです。
迷子になっていた羊を見つけると、
今度は、その羊が羊飼いのもとから脅され追い出されて
狼の餌食になったりしないように、
羊飼いはその羊を両肩に乗せて運びます。
実は、私たちもこの羊と同じような存在です。
私たちは自力で自分を助けることもできません。
キリストが御言葉によって
私たちを信徒の群れへと連れ戻してくださらなければ、
どうすれば良心に平穏が得られ、
悪魔や死や地獄の支配から解放されるか、わかりません。
たとえ私たちがキリストの御許に来て信仰に留まったとしても、
キリストが常に変わらない御言葉や力によって
私たちを強め運んでくださらなければ、
私たちは自分で自分を保つことなどできません。
なぜなら、悪魔が絶えずいたるところで私たちの隙をうかがっており、
「ほえたけるししのように、
誰を飲み込もうかとさがしながら歩き回っている」
(「ペテロの第一の手紙」58節)からです。
ですから、ここでは私たちの自由意志とか力などというものを、
いかなる場合であれ誇るべきではありません。
私たちの羊飼いなるキリストが
おひとりですべてを成し遂げられることになっているからです。
「イエス様は、私たちのために死んで、私たちの罪を十字架でそのからだに担い、
悪魔や死や罪をその足元に踏みつけ、私たちを永遠の命へと連れて行かれる」、
というメッセージを、キリストが私たちに説教なさるときに、
このことは成就します。
キリストは私たちがこの世で生きていく間ずっと私たちを運んでおられるので、
私たちは自分がどれだけ義しくまた強いか、
などと自分の生活を省みなくてもよいのです。
私たちに必要なのは、キリストの両肩の上で休むことだけです。