このように信仰による者は信仰者アブラハムと共に祝福を受けるのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」3章9節)
この御言葉は、「信仰者アブラハムと共に」、ということを強調しています。
ここではアブラハムが二つに分けられています。
ひとりのアブラハムはわざを行い、もうひとりのアブラハムは信じています。
わざを行うアブラハムと私たちは何のかかわりもありません。
もしもアブラハムが行いによって義とされたなら、
彼は自分を誇ることができるでしょうが、
神様の御前ではそうではありません。
私たちは信仰者アブラハムを誇ります。
「このアブラハムは信仰によって、
自分にも、自分と同じように信じている者皆にも、義なる祝福を得た」、
と聖書は証しています。
もしもアブラハムのように信じるのなら、全世界が祝福されるのです。
言い換えれば、自分自身が義と認められるのです。
祝福とは、福音を宣べ伝えて教え、キリストを告白し、
すべての国民にキリストについて知らせることにほかなりません。
そして、この牧師としての奉仕(説教職)は
新約聖書の教会の真のささげものです。
この奉仕は、
説教とサクラメントによって、
ざんげと罪の赦しの宣言によって、
慰めによって、
アブラハムが自分の祝福としてもっていた
「恵みの御言葉」を教えることによって、
祝福を分けてくれます。
この「恵みの御言葉」をアブラハムは信じ、祝福を受けました。
私たちもそれを信じて、祝福をいただけます。
この祝福は、世に対してではなく、神様の御前における栄光です。
なぜなら、
「私たちの罪は赦されており、
私たちは神様に喜んで受け入れていただける存在になっています。
神様は私たちの御父様、私たちは神様の子です。
神様は御自分の子たちに怒りたいとは思われません。
逆に、罪や死やあらゆる悪から私たちを救い出したいと望んでおられ、
私たちに義と命と永遠の救いを贈ることを望まれている」、
ということを私たちは聴いているからです。