律法は義なる人のために定められてはいません。
(「テモテへの第一の手紙」1章9節より)
「もしも私に絶えず罪がある場合には、それは正しくないことでしょう?」。
答え。
「そう、私は罪人で悪いことをしているけれど、
こんな疑問を抱いたり、地獄へと急いだり、
律法から逃げてみたところで、何も始まりません。
私のためには、モーセよりもさらに上方にある「みわざ」があります。
それによって私は、「私をつかまえてくださった方」につかまります。
私は、
「私を洗礼において受け入れて、抱きかかえ、
福音を通して「御自分のもの」にあずからせ、
御自分を信じるように命じておられるお方」
にしっかりとつかまります。
この方がおられる御許から、
ファリサイ人、モーセや十戒、
律法学者全員と彼らの書物全部、
全人類とそのあらゆる行いが黙って退去するように、
彼らに命じなさい。
この方の御許では、
たとえ私がするべきことをしなかった場合でも、
律法には私に対して責めたり要求したりする権利はまったくありません。
私は、自分に欠けているすべてのものを、
キリストにおいて豊かにいただいているからです」。
まとめると、こうです。
「外なる人」(「生身の人間」)の上に
あまり重すぎるものを載せすぎてはいけないし、
無理やり担がせてもいけません。
とりわけ「良心」の上には、一切何も載せてはいけません。
なぜなら、
キリストを私たちにもたらす御霊のおられる御許では、
人はあらゆる律法の上方にいるからです。
パウロが、
「律法は義なる人のために定められてはいません」、
と言っている通りです。