2011年8月31日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 創世記45章4節

私は、あなたたちがエジプトに売った、あなたたちの兄弟ヨセフです。
(「創世記」454節)

ヨセフがどのように自分のことを兄弟に打ち明けたか、読み流したりせずに、
ヨセフや彼の兄弟が深い驚きと恐れと激しい心の動揺にとらわれている様子を
ゆっくり時間をかけて思い浮かべてみましょう。
「私はヨセフです」と打ち明けたヨセフに対して、
私だったらどのように反応するか見当もつきません。
それはヨセフの兄弟にとっても同じことでした。
私たちの主、救い主イエス・キリストが、私たちをこの世の人生の中で、
さまざまなやり方で、ときには病気や鞭や死によって鍛錬した後で、
必ず迎えに来てくださることを思い出しましょう。
 
キリストはちょうどヨセフのようです。
ヨセフは兄弟のことに気がついていましたが、
兄弟が彼に気がつかない間は、わざとよそよそしく厳しい暴君のように振る舞い、
彼らに苦難と試練を与えました。
それは、彼らがヨセフに対して犯したひどい罪を心から知り、
それを告白するようになるためでした。
以前は私たちを今すぐにでも殺そうとしている
残酷きわまりない暴君にしか見えなかった方が、
思いもよらない真の姿を突然あらわしてくださった瞬間には、
どれほどの歓喜が湧き起こることでしょう。
その方が、「私はヨセフです」、とか、
「私はあなたがたの救い主イエスです」、
と言ってくださるときの喜びといったら!
  

2011年8月29日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙1章4節

  
キリストは私たちの父なる神様の御意志に従い、
私たちを今の悪の世から救い出そうとして、
御自身を私たちの罪のためにささげてくださったのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」1章4節)
  
「私たちの罪のために」とか「私のために」とかいった言葉に
どれほど多くのことが含まれているかよく注意して考えてみなければなりません。
さらに、「私のためにささげられた」という御言葉を
はっきりとした信仰をもって受け入れ、
それを自分にもあてはめるようになりましょう。
キリストはペテロやパウロや他の使徒たちだけを愛して、
彼らだけのために御自分をささげてくださったのではありません。
そのような恵みは私たちにも同じように与えられているのです。
このことを「私のために」というこの短い言葉は意味しています。
私たちは皆罪人であり、
アダムはその罪によって私たち皆を腐敗させ、
神様の怒りや裁きや永遠の死を受けるのが当然の存在にしてしまいました。
それと同様に、キリストは、
私たちを義とするために、
私たちの罪のために死んでくださいました。
キリストは、前からすでに義である者たちを義とするために死なれたのではなく、
貧しい罪人を助けて彼らが義とされ、
神様の友、神様の愛する子供になり、
天国を継ぐ者となるために、死んでくださったのです。
 
(「義とされる」というのは「神様に受け入れられる存在になる」ということです(訳者注)。)
  

2011年8月26日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書3章8節より

  
風は思いのままに吹きます。
あなたはその音を聞くけれども、それがどこから来て、どこへ行くかは知りません。(「ヨハネによる福音書」38節より)
   
神様のみわざやそれに関わることを見たり知ったりできないほど、理性は盲目なのです。
人間の理性を過大に評価して「理性は常に至高の事柄を扱う」と主張する賢い学者たちにとっては、この真実は受け入れがたいものでしょう。
人間性の最良の部分(理性)さえも取るに足らないものであり、美しく明瞭なことを識別する力もなく、怒りや激情や妬みに満ちています。
このことを知らせるために、神様はここで私たちに具体的な例を与えてくださったのでした。
イエス様はたとえとみわざによって、人間の理性は神様の御前では盲目であり死んでいることを示してくださいました。
ですから、理性が神様のみわざに関心を持たず、それを求めもしないのは当たり前なのです。
  

2011年8月24日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇62篇9節

民よ、どんなときでもこの方に信頼しなさい。
この方の御前にあなたがたの心を注ぎだしなさい。
私たちにとって、神様が避けどころなのです。
(「詩篇」629節)

あなたたちに何か欠けているときにも、どうするべきか、適切な助言が用意されています。
「その御前にあなたたちの心を注ぎだしなさい」、というのがそれです。
何が必要か隠さずにはっきり言いなさい。
何についてであれ、ちょうど心を親友に打ち明けるように、すべて神様にお話ししなさい。
神様は喜んで祈りを聞いてくださるし、ぜひ助けてアドヴァイスを与えたいと望んでおられます。
「自分たちの願いは大きすぎる」などと考えて、神様を恐れたりしないようにしなさい。
勇気を持って!
欠けているものや必要なものが山ほどあっても、全部、打ち明けなさい!
神様から願うことが多ければ多いほど、それだけ神様は喜んであなたの言うことに耳を傾けてくださるのです。
素直にあなたの心を注ぎだし、何も隠さないようにしなさい。
神様はあなたのことを一部分だけ聞きたいと思っているのではなく、御自分の恵みをあなたの上に満ちあふれさせたいと願っておられるからです。
  

2011年8月22日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 コリントの信徒への第一の手紙15章3~4節

私は、私自身も受けたこと(教え)を、最も大切なこととしてあなたたちに伝えました。
すなわち、キリストが、聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、そして、葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目によみがえられたことです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」1534節)
  
ここで、パウロは、(旧約)聖書を最強の証拠として挙げつつ、聖書なしには正しい教えと信仰を保てないことを明示しています。
大切なのは書かれている御言葉、聖書です。
しかし、敵対者は「大切なのは聖書ではなく、霊だ」と主張し、「霊によって決まるのだ、御言葉は、死んだ文字に過ぎないのだから、命を与えるようなことはできっこない」などと言います。
しかし、私は言います。
もしも啓示された御言葉の中にとどまるつもりがないならば、霊について誇るのを止めなさい。
その霊はよい霊どころか、たちの悪い地獄の悪魔だからです。
聖霊様は、すべての知恵と助言とを御言葉に集めて、聖書の中に啓示してくださいました。
それは、誰も、自分の正しさを弁護できないようにし、自分の救いのために知っておくべきことを聖書以外から探求しないようにするためです。
神様の御子、私たちのために死んで復活してくださった、私たちの救い主イエス・キリスト、についての聖書の教えよりも上位にくるような優れた教えは、ひとつも存在しないのです。
  

2011年8月19日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヘブライの信徒への手紙4章2節

彼らにも、私たちにも同様に福音が伝えられています。
しかし、その伝えられた御言葉は、彼らには無益でした。
彼らは福音を聞いたものの、信仰をもって受け入れなかったからです。
(「ヘブライの信徒への手紙」42節)

「イエス・キリストが私のために死に、私の罪を取り去り、私に天国を用意してくださった」ということを耳にするときに、私は真の福音を聞いています。
宣べ伝えられた御言葉によって生じた音響はまもなく止みますが、もしも御言葉が心に根付き、信仰によって受け入れられているならば、その御言葉は決して消えることがありません。
そして、この真理を無効にするような者は存在しません。
地獄の門もこれに対して何も手出しできません。
私が悪魔に呑み込まれそうになっている場合でさえ、私が御言葉をもっているならば、悪魔は私を解放するしかないのです。
こうして、私は御言葉の中で守られていきます。

2011年8月17日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書16章23節より

よくあなたたちに言っておきますが、あなたたちが御父様に求めるものは何でも、(御父様は)私の名によって与えてくださることでしょう。
(「ヨハネによる福音書」1623節より)

「祈る準備が整った」とはっきり確信するまで祈らないことにするならば、人は決して祈ることにはならないでしょう。
私たちの祈りは自分の能力に基づくものではなくて、「神様の約束が揺るがない真理であること」に基づくものだからです。
(中略)
私たちが祈ることができ、また私たちの祈りが聞かれるのは、「自分の行いの報いとしては何も神様からいただく資格がないこと」を信じて、そのような者として、ただただ神様の忠実さに依り頼むからなのです。
(中略)
どれほど業績や能力があっても何の助けにもならないし、どれほど「ふさわしくない者」であっても祈りの邪魔にはなりません。
しかし、信じないならば、その不信仰はあなたを裁くことになります。
神様に頼るときに、あなたは「ふさわしい者」とされ、支えていただけます。
それゆえ、「自分は祈るのにふさわしく、自分の祈りは聞かれる」と信じて、決して疑ってはいけません。
そうすれば、あなたは神様の御前に出る勇気をもてるだろうし、恵み深い神様の欺かない厳粛な約束に信頼できることでしょう。
そして、神様はあなたに対しても憐れみと恵みを賜ることでしょう。
神様は、頼まれたわけでもないのに、まったくの恵みから、「誇るべき業績もない、ふさわしからぬ者たちの祈りを聞く」と約束してくださったのですから。
祈りが聞かれたり、約束がかなえられたときには、「自分がふさわしい」ことを感謝するのではなくて、神様の真理と恵みとを感謝しましょう。
この恵みにこそ神様の約束は基づいているのですから。