2020年8月31日月曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」3章12節 「人生の下り坂」

 「人生の下り坂」

 

兄弟たちよ。あなたがたのうちの誰ひとり、

不信仰な悪い心をいだいて活ける神様から離れ去ったりしないように

気をつけなさい。

(「ヘブライの信徒への手紙」312節)                         

 

罪によって歪められたこの世で生活するとき、

人は下へ下へと引かれていきます。

自分の信仰の立場を曖昧にしたままでいると、

人生の下り坂を転げ落ちていくだけです。

 

それとは逆に、

キリストへの信仰とは前へ上へと進んで行くことです。

神様は私たちに上を向いた聖なる生き方をしてみるように招いておられます。

神様の御手を振り払うと、私たちは倒れてしまいます。

前進するか後退するか、

私たちにはいつもそのどちらかの選択肢しかありません。

同じ場所に留まってペダルを踏み続けることはできないのです。

 

自分は洗礼を受けているし堅信礼も済んでいるのだから

神様の子ども」という光栄ある立場にその気になればいつでもなれる、

などと呑気に思い込んでいる人が大勢います。

「自分はキリスト教を否定しているわけではないのだから、

とりたてて祈らなくたって、

神様の御言葉を聴かなくたって、

聖餐式にあずからなくたってかまわないだろう」

などと彼らは言います。

しかし、彼らは

「私の味方でない者は私に反対するものです」

(「マタイによる福音書」1230節より)

というイエス様の御言葉を理解していません。

 

たしかに救いは神様からのまったき賜物です。

だからといって、

恵みに留まるための霊的な戦いを避けることができるわけではありません。

私たちは「競技場」に立たされており「戦場」の真っ只中にいるのです。

信仰とは、這いつくばってでも常に上へと登っていくことなのです。

 

私たちには罪の赦しと命があります。

しかし「あなたがたのうちによいわざを始められた方が

キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださると確信しつつ」

(「フィリピの信徒への手紙」16節)、

私たちはそこにしっかり留まって成長していくことを目指します。

 

(祈り)主よ、

救いの道を着実に常に前進していけるようにどうか私を助けてください。

(関連聖句)「エレミヤ書」847

 

2020年8月26日水曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」3章8節より 「石のように硬くなった心」

 「石のように硬くなった心」

 

あなたがたの心をかたくなにしてはいけません。

(「ヘブライの信徒への手紙」38節より)

 

よい考えや決心は容易く崩れてだめになりがちです。

罪は時間が経つと心をかたくなにしていきます。

悪い考えはセメントのように固まってしまいます。

怒りと怨みは石のように硬く心の底に沈殿していきます。

軽率に欲望と戯れてはいけません。

たちまちのうちに欲望は良心を固くして、それに馴染ませてしまうからです。

 

「自分は正しい行いをしているから神様に認めてもらえる」

とすっかり思い込んで心をかたくなにしていたファリサイ人に対して、

イエス様は「わざわいなるかな」と叫ばれました。

もはや彼らには何も効き目がありませんでした。

イエス様の恵みの御言葉も、愛も、復活さえも。

 

「ヘブライの信徒への手紙」は

信仰者が心をかたくなにしないようにと警告しています。

心を傷つけあったり、誤解したり、他の人が嫌になったりしたのなら、

それを毎日元通りに直していかなければなりません。

私たちには罪の赦しを神様からいただく必要があります。

また、家庭では互いに赦し合うことも必要です。

 

私たちは主イエス様の尊い十字架の御業を通して洗い聖められた

「聖徒」なのです。

それゆえ、私たちは自らの罪を日々悔い改め、

イエス様の死と復活が自分たちのためでもあったことを信じ、

罪の赦しの恵みを賜った主に栄光を帰し、感謝し、

聖徒としてふさわしい生きかたをしていきましょう。

 

(祈り)聖霊様、

私の中で固くなりつつある罪をどうかひとつひとつ崩してください。

喜びと平和の御霊よ、私があなたを悲しませないように守ってください。

主イエス・キリストを通して

あなたの御声をきちんと聴き取ることができるように、

また、信仰の中に留まって天の御国へと入れるように、

どうか私を守ってください。アーメン。

(関連聖句)「詩篇95篇」

2020年8月21日金曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」3章1節「天国からの招待」

「天国からの招待」

 

そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。

あなたがたは、

私たちが告白する信仰の使徒また大祭司なるイエス様のことを思いなさい。

(「ヘブライの信徒への手紙」31節)

 

神様からいただいた召しが私たちをキリスト信仰者にし、

私たちに希望と命の礎を与えてくれました。

それは

天からの召し、

神様からの召し、

神様の御許への召し、

神様を通しての召し、

神様への召しです。

 

この召しは、

地獄へと向かっていた罪人である私たちに

洗礼の恵みを通して与えられました。

それは

私たちを立ち止まらせて目を開かせ、

私たちが本来なら地獄に落ちるべき罪深い存在であることを

自覚させてくれました。

 

この召しは私たちの心を神様へと向けさせました。

また、神様が愛そのもののお方でもあることを私たちは見ました。

キリストを通して私たちは限りない恵みを目にしました。

その偉大さの重みは私たちを地面へと押しやりました。

 

イエス様を見るだけでは足りません。

私たちキリスト信仰者は聖霊様をいただいています。

聖霊様は私たちを照らして、信仰と新しい命を与えてくださったのです。

 

天からの召しは私たちに新たな生き方と使命を与えてくれます。

私たちは恵みを人生の中心に据えます。

それによって他の人々と共に恵みにあずかれるようになるためです。

神様からの恵みと愛とが私たちの人生の歩みを輝くものにしてくれます。

 

この召しにおいてはキリストがその中心におられます。

私たちの心はキリストへと、

私たちが告白する信仰は使徒であり大祭司なる方へと

結び付けられます。


キリストは私たちのためにいつも祈っておられます。

 

(祈り)主よ、魂の救いという信仰の目標を達成するまで、

どうか天からの召しに対して私が忠実であり続けられるようになさってください。

アーメン。

(関連聖句)「テモテへの第二の手紙」1611