2022年9月28日水曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの黙示録」5章9節より「十字架の輝き」

 「十字架の輝き」

あなたはほふられ、その血によって、神様のために、

あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々を買い取ってくださいました。 

(「ヨハネの黙示録」59節より) 

  

ゴルゴタの十字架刑の日の約60年後、

使徒ヨハネはパトモス島で「ヨハネの黙示録」を書きました。

その頃には彼は、十字架のもとに立っていた使徒たちのうちの

唯一の生き残りとなっていました。

彼は世界中に福音を伝えるために出て行った最初の男たちのうちの

唯一の生き残りでした。

「十字架の恥辱」が「輝く栄光」に変っていく様を

彼は自分の目で見届けることができました。

 

私たちも十字架の輝きを見つめることができます。

今日でも十字架は人々を悔い改めと罪の赦しの恵みへ招いています。

私たちが罪の恥辱にまみれているにもかかわらず、

神様は私たちに時の世界の向こう側(すなわち天の御国)にまで延びていく

輝きを与えてくださいました。

このことを十字架は語っているのです。

十字架はキリストにおける神様の愛を宣べ伝えています。

いかなる力も私たちを十字架から引き離すことはできません。

十字架は今日でも神様の恵み深い憐れみによって私たちに語りかけています。

 

もしも自分自身のために生きるのなら、

毎日が単調で長く暗い日々になります。

神様なしの人生には輝きがありません。

人間の生活では十字架の輝き以外の輝きは存在しません。

十字架の恥辱を通して歩んだキリストは

私たちに天の御国の決して朽ちない輝きをもたらしました。

罪の赦しは輝く天の御国への窓を開いてくれるのです。

 

(祈り)私たちの主イエス・キリストの十字架以外の何かについて

私が誇るようなことが決して起こりませんように。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの黙示録」5914

2022年9月21日水曜日

「力なき者に力を」「使徒言行録」7章59節「石を投げつける者と祈る者」

 「石を投げつける者と祈る者」

 

こうして彼らはステファノに石を投げ続けました。

そのステファノは祈り続けてこう言いました、

「主イエス様、どうか私の霊をお受け取りください」。

(「使徒言行録」759節)

 

十字架に敵対する人々はステファノに石を投げつけました。

ステファノは祈りました。

石を投げつける者たちは勝ったかのように見えました。

ステファノは地に崩れ落ち「眠りに就いた」からです。

 

石は祈りよりも強かったのでしょうか。

祈る者の声が石の打撃によって弱っていった時には

たしかにそう見えたでしょう。

それでもこれは石打ちの刑に加担した人々の勝利ではありませんでした。

息絶えるまでステファノは自分を殺そうとしている者たちのために

罪の赦しを祈り続けました。

石を投げつけられたりひどい迫害を受けたりしながらも、

キリストの福音は勝利者として世界中を巡り続けてきました。

 

暴力は恨みと憎しみを生むだけです。

祈りの力に対抗できる武器は存在しません。

祈りは最強の壁さえも貫通します。

 

祈りはキリスト信仰者の秘密の武器です。

核兵器の恐怖に関連して

「本当に暴力は何かの役に立つのか」という疑問が投げかけられています。

私たちキリスト信仰者は、

祈りが殺人兵器よりも効果的な武器であることを十分に証しているでしょうか。

はたして私たちは手を組んで祈っているでしょうか、

それとも怒りにまかせて脅す態度をとっているのでしょうか。

敵対者たちのことを呪ったりはしないで

神様に対して祈りの声をあげているのでしょうか。

 

神様がくださる「戦闘服」一式を身に着けようではありませんか。

すべてを祈りつつ行いなさい。

「義人の祈りは大いに力があり、効果のあるものです」

(「ヤコブの手紙」516節より)。

 

(祈り)絶えず私たちが祈るように命じ、

私たちの祈りを聴くと約束なさっている神様、

どうか私たちに祈りの霊をお与えください。

御霊と真理にあって御心に適うように絶えずあなたに祈ることができるように、

どうか私たちをお助けください。

アーメン。

(関連聖句)「ヤコブの手紙」2113

2022年9月19日月曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」1章23節 「十字架にかけられたお方の御前で」

 「十字架にかけられたお方の御前で」

 

私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。

このキリストは

ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです。

(「コリントの信徒への第一の手紙」123節)

 

騒然とした世の中や涙ながらの苦しい人生の中から

私たちは十字架のもとにやって来ます。

罪が重くのしかかり霊的な戦いでうまくいかなかったときに、

私たちはそこへ、

罪の赦しと平和と喜びをいただけるなじみの場所へと急ぎます。


しかし十字架のもとを去るならば、

私たちは不安と孤独に支配され、裁きの下におかれてしまいます。


十字架のもとで私たちは静かなる人々の大勢の集まりに加わります。

私たちはそこから生と死において必要とされるすべてのことを見出します。

 

十字架のもとで私たちは自分の罪のゆえに泣きくずれます。

いつもそこから正しい礼拝が始まるのです。

罪がどれほどひどいものかがわかります。

神様、どうか罪深い私を憐れんでください。

 

ゴルガタのもとで悔いる人々の涙は

キリストの聖なる犠牲の血に混ぜられます。


十字架の上でイエス様はまず

「父よ、彼らの罪を赦してください」と祈られました

(「ルカによる福音書」2334節)。


そしてこの聖なる犠牲の奉仕は「成し遂げられた」という

「アーメン」に相当する言葉で閉じられます

(「ヨハネによる福音書」1930節)。


ここに私たちの救いがあります。

ここで心は感謝で満たされます。

ここで私たちは御霊と真理にあって仕えます。

ここで私たちは福音が救いのための神様の力であると理解します。

 

(祈り)あなたの十字架のもとに、

イエス様、どうか私をいつも留まらせてください。

そこでは罪に悩まされた者の重荷はもう重くなくなります。

私の誇りは十字架だけです。

恵みをいただいて天国に行けることを感謝します。

アーメン。

(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」11821

2022年9月9日金曜日

「力なき者に力を」「詩篇」71篇9節「目的地、接近」

 「目的地、接近」

 

私が年老いた時、私を見離さないでください。
私が力衰えた時、私を見捨てないでください。

(「詩篇」719節)

 

住む家があり、食べ物があり、快適な環境があり、

世話してくれる人が確実にいる場合には、

年老いていくのを恐れる人は誰もいないでしょう。

その一方で、

他の人たちからの好意にすがって

生活していかなければならなくなるのを望む人も誰もいないでしょう。

 

年老いていくとき私たちは

「私が年老いた時、私を見離さないでください。
私が力衰えた時、私を見捨てないでください」

と祈ります。

 

私たちは全員が例外なく年老いていくのですから、

老人たちや病人たちのことを覚えるべきです。

私たちはこのことを忘れてしまっていることがあまりにも多いです。

私たちが会いに行くならば、

祖父や祖母はその日をいつもより楽しく過ごすことができます。

 

私の力もいつかは衰えます。

そして助けを必要とするようになります。

イエス様への信仰やイエス様の恵みがなければ人生は孤独です。

 

自分が神様に見捨てられたと感じるときがあっても、

そのような考えにとらわれないようにしましょう。

神様は決して見捨てません。

「私はあなたを捨てない」と神様は言われます。

イエス様の十字架は神様の愛を証しています。

神様はその独り子を惜しむことなく、

十字架で死ぬようにしてくださったのですから、

私たちが年老いたときに、私たちを見捨てたりするはずがありません。

 

私たちの人生の終わりの日まで神様は私たちと共におられます。

なぜなら神様は

「私はあなたがたが年老いるまで変らずに

(あなたがたが)白髪となるまであなたがたを運びます。

私が(あなたがたを)造ったのですから、私が持ち上げ、運び、救います」

(「イザヤ書」464節)

と約束してくださったからです。

 

(祈り)神様、あなたが私を年老いるまで生きるようになさる場合には、

どうか年老いた時の私にも平和と喜びとを賜りますように。アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」22532

2022年9月7日水曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」20章28節「あがないの代償」

「あがないの代償」

 

それは、

人の子が来たのも仕えられるためではなく仕えるためであり、

また多くの人のあがないとして自分の命を与えるためであるのと、

ちょうど同じことです。 

(「マタイによる福音書」2028節)

 

人は誰でも死をすべての行いの悲しい終わりだとみなすものです。

しかし、キリストの死はその御業のうちで最も偉大で大切なものでした。

実にこのためにキリストはこの世に来られたのです。

死はキリストの御業の中心部を占めていました。

そしてキリストの死はあがないの御業でした。

あがないの代償(身代金)によって囚われ人は解放され、

犯罪者は赦免されるのです。

 

「私は自分の霊をすべての人のあがないの代償として差し出します」

と今から約二千年前に宣言されたお方のことを考えましょう。

イエス様がこの言葉を言われたと信じるのなら、

イエス様が神様の御子であり世の罪を取り除く和解の捧げ物であることをも

信じるべきでしょう。

さもなければ、イエス様を詐欺師やうそつき呼ばわりすることになるからです。

イエス様の話されていることが本当だと信じるのなら、

イエス様は私たちを罪から救ってくださる主であることをも

信じることになります。

イエス様にあって私たちは神様との平和をいただいています。

私たちはイエス様の確かで固い約束をいつでも信頼することができます。

「私たちは御子にあって、神様の豊かな恵みのゆえに、

その血によるあがない、すなわち、罪過の赦しを受けたのです」

(「エフェソの信徒への手紙」17節)。

父なる神様は御子イエス様をその十字架の死のゆえに、

私たちを天国へと連れて行く新たな活ける道としてくださいました。

 

(祈り)貧しい罪人よ、今、主イエス様の御許に急ぎなさい。

そうすれば、キリストの御傷から平和と慰めをいただけます。

キリストという道は最終的には私たちを天国に導いてくれる道です。

ただしそれはさまざまな苦難の伴う道でもあります。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」51821

2022年9月1日木曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」1章46節「みんなのイエス様」

 「みんなのイエス様」


ナタナエルは彼(フィリポ)に言いました、

「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。

(「ヨハネによる福音書」146節)

 

「心に偽りがない真のイスラエル人をごらんなさい」(47節)

とイエス様はナタナエルについて言われました。

しかしナタナエルは疑いました。

彼は旧約聖書にその到来が約束されているメシアが

ナザレのようなちっぽけな村から出てくることはありえないと思っていたのです。

 

ある意味で彼は正しかったとも言えます。

人は皆、その生まれ育った環境の刻印を受けます。

家庭や周囲の環境が人に与える影響は明らかです。

パウロは心底からユダヤ人であり、ルターは根っからのドイツ人でした。

 

しかしイエス様はすべての人間にかかわりがありました。

イエス様は今も昔もどの時代にも変りません。

イエス様をすべての国やあらゆる時代におけるキリストにしたのは、

ナザレでイエス様が受けた教育ではありません。

そうではなく、そもそも最初から「みんなのイエス様」だったのです。

イエス様の十字架の御業のゆえに罪の赦しの恵みを

(誰もが信仰を通して受けとれるように)皆のために用意するという、

神様の永遠に変わらない決定事項について、

イエス様は皆に公に伝えてくださいました。

イエス様はすべての国民やあらゆる時代の人々に

天国への道を開いてくださいました。

「神様はその独り子を賜わったほどにこの世を愛されました。

それは、御子を信じる者皆がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためです」

(「ヨハネによる福音書」316節)。

イエス様はこうも言われています、

「誰もまだ神様を見たことがありません。

ただ御父様のふところにいる独り子なる神様だけが、

神様のことを宣べ伝えたのです」(「ヨハネによる福音書」118節)。

 

(祈り)主イエス様、私たちがあなたを神様や救い主として知るようになり、

あなたを愛し、自分たちの王として仕えるように、

どうか私たちを教えてください。

(関連聖句)「マタイによる福音書」161328