「あがないの代償」
それは、
人の子が来たのも仕えられるためではなく仕えるためであり、
また多くの人のあがないとして自分の命を与えるためであるのと、
ちょうど同じことです。
(「マタイによる福音書」20章28節)
人は誰でも死をすべての行いの悲しい終わりだとみなすものです。
しかし、キリストの死はその御業のうちで最も偉大で大切なものでした。
実にこのためにキリストはこの世に来られたのです。
死はキリストの御業の中心部を占めていました。
そしてキリストの死はあがないの御業でした。
あがないの代償(身代金)によって囚われ人は解放され、
犯罪者は赦免されるのです。
「私は自分の霊をすべての人のあがないの代償として差し出します」
と今から約二千年前に宣言されたお方のことを考えましょう。
イエス様がこの言葉を言われたと信じるのなら、
イエス様が神様の御子であり世の罪を取り除く和解の捧げ物であることをも
信じるべきでしょう。
さもなければ、イエス様を詐欺師やうそつき呼ばわりすることになるからです。
イエス様の話されていることが本当だと信じるのなら、
イエス様は私たちを罪から救ってくださる主であることをも
信じることになります。
イエス様にあって私たちは神様との平和をいただいています。
私たちはイエス様の確かで固い約束をいつでも信頼することができます。
「私たちは御子にあって、神様の豊かな恵みのゆえに、
その血によるあがない、すなわち、罪過の赦しを受けたのです」
(「エフェソの信徒への手紙」1章7節)。
父なる神様は御子イエス様をその十字架の死のゆえに、
私たちを天国へと連れて行く新たな活ける道としてくださいました。
(祈り)貧しい罪人よ、今、主イエス様の御許に急ぎなさい。
そうすれば、キリストの御傷から平和と慰めをいただけます。
キリストという道は最終的には私たちを天国に導いてくれる道です。
ただしそれはさまざまな苦難の伴う道でもあります。
アーメン。
(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」5章18~21節