2023年2月24日金曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」22章44節 「いっそう切なる祈り」

「いっそう切なる祈り」

イエス様は苦しみの最中にあっていっそう切なる祈りを続けられました。

(「ルカによる福音書」2244節)

 

私たちはたとえ祈るとしても、どのように祈っていますか。

どのくらい頻繁に、どのような心持で、どれほど熱心に?

 

祈りはたんなる朝夕の定型文による祈りの言葉よりも深いものです。

子どもの頃に覚えた短い祈りがその価値を失うことはありませんが、

心のこもらない機械的な祈りは避けるべきです。

主の祈りは比類無き見事な宝石のような祈りです。

しかしルターによれば、

いい加減に唱えられることの多い「最大の犠牲者」です。

私たち自身の祈りのあるべき姿を教えるたしかな枠組みとして

主の祈りを用いることができます。

なによりもまず神様の栄光と御国の実現とを求めましょう。

その後で、自分自身や隣り人の日用の糧を祈り求めましょう。

 

私たちの人生には「いっそう切なる祈り」を

救い主から学ばせていただく時期があるものです。

ゲッセマネにおける極度の苦悶の只中で

イエス様は「いっそう切なる祈り」をなされました。

天の父から力づけられた後、イエス様は粛々と十字架の死へ赴かれました。

心が沈んでいる時や深く悲しんでいる時、

私たちも「いっそう切なる祈り」をすることになります。

ヤコブと共に私たちも夜明けまで神様と組み合うことになります。

私たちが(祈りの)試練に勝った時、

神様は愛する御子のゆえにどれほど喜んで

私たちを祝福し助けてくださることでしょうか。

 

(祈り)主よ、あなたの御旨に沿うように自分自身を整えて

絶えず祈りつづけることができるようにどうか私を助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」223945

2023年2月22日水曜日

「力なき者に力を」「ヤコブの手紙」5章16節「とりなしの祈り」

 「とりなしの祈り」 

ですから互いに罪を告白し合い、

た癒されるように互いのために祈りなさい。

義人の祈りはそれが熱心になされる場合には大いに力があります。

(「ヤコブの手紙」516節)

 

聖書の登場人物たちはお互いのために祈り合いました。

なぜ私たちはそうしないのでしょうか。

 

私たちが互いにとりなしの祈りをしないことを神様は訝っておられます。

誰もが自分自身や家族や親しい人々のためにばかりよいことを祈っています。


ある特定の人が悔い改めるように祈っている人が誰かいるでしょうか。


説教職を務める牧師たちや教会のために誰か祈っていますか。


躓いた人やさまよっている人のために誰か祈っていますか。


海外宣教や学校のために祈っている人がいますか。


子どもたちが洗礼の恵みに留まれるようにと誰か祈っているでしょうか。


社会全体の責任を担う指導者たちのために私たちは祈っているでしょうか。

 

とりなしの祈りをしないでいることは

キリスト信仰者にとって最悪の怠慢であるとも言えます。


義人の祈りはそれが熱心になされる場合には大いに力があります

(「ヤコブの手紙」5章16節)。


ロトのためにアブラハムが祈ったとき、

また偶像礼拝に陥ったイスラエルのためにモーセが祈りで戦ったときに

何が起きたのかを思い出してください

(「創世記」18章、「出エジプト記」32章)。


死刑囚として投獄されたペテロのために信者たちが祈ったときに

何が起きたか思い起こしてください(「使徒言行録」12章)。

 

「もしあなたがたのうちの二人が、

どんなことについても地上で心を合わせ願うなら、

天にいます私の父はそれをかなえてくださいます」

とイエス様は言っておられます(「マタイによる福音書」1819節より)。


「神様の武具一式を身につけ」るとき、

私たちは「主にあって、その偉大な力によって強くなり」ます

(「エフェソの信徒への手紙」61013節より)。


「あらゆる祈りと願いをし、

どんな時でも御霊によって祈り、

そのためにあらゆる忍耐を持ち、

すべての聖徒のために祈りつつ目を覚ましていなさい」

と聖書は教えています(「エフェソの信徒への手紙」618節)。

 

(祈り)

私たちのために偉大なとりなしの祈りをなさり、

私たちを守ってくださる主イエス様、

私たちも互いに祈る習慣を身に着けられるようにお教えください。

アーメン。 

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」17

2023年2月16日木曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」1章25節「神様の愚かさの知恵」

「神様の愚かさの知恵」

神様の愚かさは人よりも賢く、神様の弱さは人よりも強いのです。

(「コリントの信徒への第一の手紙」125節)

 

人間は実に天才的です。

それを証明する事例が年を追うごとに

いっそう驚嘆すべき形で実現してきています。

現代の科学技術を前にしては、旧世代の発明もすっかり霞んでしまいます。

人工衛星や超近代兵器、難病の最先端医学による克服など、

枚挙に暇がありません。

 

しかし人間は自分自身の理性や力によっては

神様のことを知るようにはなりません。

私たちは霊的に盲目であり、罪過や罪の中に死んでいます。

また私たちはこのような自らの性質を変えることはできないし、

己の罪の腐敗から完全に離脱することもできません。

私たちは神様なしではこの世でまったく希望を持てずに滅びてしまいます。

 

まさにこのような私たち人間を神様は御子の尊い血によってあがない、

聖なる御自身と和解させてくださったのです。

私たちの救いは十字架の福音にのみあります。

しかしまさにこのことがこの世にとっては愚かさ以外の何物でもなく、

理性にとってはいつまでも謎のままですが、

子どもの心を持つ人々にはその意味が明かされるのです。


救われるためには、理性を捕え、

信仰の従順によって神様の御言葉の支配に屈服させなければなりません。

聖霊様により神様はあなたがたのうちに働きかけて、

あなたがたが正しく願い求める心を起させ、

しかもその願いを実現させてくださるのです

(「フィリピの信徒への手紙」213節より)。

すべての栄光が神様にありますように。

 

(祈り)聖霊様、

キリストの福音を混じりけなく保って伝えていくことができるように、

どうか私たちを助けてください。

そしてそのおかげで私たちの信仰が

人間の賢さではなく神様の力に基づくものになりますように。

アーメン。  

(関連聖句)「箴言」219

2023年2月14日火曜日

「力なき者に力を」「詩篇」31篇16節「神様の支配」

「神様の支配」

私の時はあなたの御手の中にあります。

(「詩篇」3116節)

 

ある男の人は新聞を開いて

「神様は今日この世界で何をなさっているのだろう」と言ったそうです。

私たちはまさにこのような態度でこの世の出来事に接していくべきでしょう。

現代では新たな事態が驚愕するほど頻繁に起きています。

しかし神様がこの世界を支配なさっていることを信じる人々にとって

それは重苦しいことではありません。

 

第二次世界大戦のあらゆる恐怖を体験した男の人がアメリカにやってきました。

彼は軍隊も平和運動も発明や学問もこの世界を救うことができない

という結論に達しました。

私たちの平和の希望のすべてはキリストのうちにあるからです。


私たちはキリスト信仰者の価値観を実践していくべきなのです。

私たちは自らの信仰を告白していくべきなのです。

私たちは祈るべきなのです。

私たちはもっと与え、もっと愛するべきなのです。

このことをキリストは今日、私たちに期待しておられます。

 

神様は偉大なことをこの世界でなさっています。

それゆえ私たちはより深く罪を自覚し、

より強く救い主イエス・キリストを信じる必要があります。

まさにこの方向へと、

神様は今日、キリスト教会を引き寄せようとなさっています。

  

(祈り)主よ、

あなたの御子が栄光に包まれて再臨なさることを私たちが待ち望み、

その時を少しでも早めようとするときに、

私たちはキリストを信じる者として

どのようにこの世を歩むべきなのでしょうか。

どうか私たちを勇敢な信仰や燃える愛をもち

試練に耐える者となさってください。

アーメン。

(関連聖句)「使徒言行録」172431節、「詩篇」51

2023年2月10日金曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」3章23節「罪の赦しの必要性」

「罪の赦しの必要性」

すべての人は罪を犯したため、神様の栄光が欠けています。 

(「ローマの信徒への手紙」323節)

 

キリスト信仰の慰めに満ちた真理とは、

私たちが「価なしに、神様の恵みにより、

キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」ということです

(「ローマの信徒への手紙」324節)。

 

それなのに、

どうして私たちはこのことを素晴らしいと思わないのでしょうか。

なぜ私たちは深く感動しないのでしょうか。

私たちが他の人々を

私たち自身よりも悪い存在であるとみなしているからでしょうか。

もしそうならば、

私たちは罪の赦しを事実上必要とはしていないことになります。

 

今、神様は私たちに「ローマの信徒への手紙」32223節で

次のようなことを教えておられます。

イエス・キリストを信じる信仰による神の義は

すべて信じる人に与えられるものです。

そこには何の差別もありません。

すべての人は罪を犯したため、神様の栄光が欠けているからです。

 

食事をした後で、テーブルナプキンは

とても汚れているものもそれほどではないものも

すべて洗濯のために集められます。

それらを新たに使うためには

洗濯と漂白とアイロンがけをする必要があります。

同じように私たちも皆、

聖なる神様の御前に落ち度なく立つようになる前には

小羊の血による洗い清めが必要になります。

 

自分と他の人とを比較するのをやめて、

自分の姿を神様の聖なる鏡に映して見るとき、

洗ってきれいにしていただく必要性がわかります。

そしてその時に、

私たちは罪の赦しをいただけることを喜べるようになります。

また神様の平和が私たちをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 

(祈り)

主よ、私たちの罪が見えるように、どうか私たちの目を開いてください。

罪の赦しがキリストにある恵みの賜物であることを

私たちにはっきりお示しください。

それにより、

私たちの心が言葉では表せない輝く喜びで満たされるようになさってください。

アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」32028

2023年2月3日金曜日

「力なき者に力を」「エフェソの信徒への手紙」2章8節「模範か、救い主か」

「模範か、救い主か」

あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰によってです。

それはあなたがた自身から出たものではなく、神様の賜物なのです。

(「エフェソの信徒への手紙」28節)

 

神様について「誰に対しても善く優しく譲歩する父親」といった

誤ったイメージをもってしまうと、罪が意味を失ってしまいます。


「自分にして欲しいことを他の人たちにもしなさい」という黄金律に

キリストのメッセージは集約できると主張されることがあります。

それによればキリストは立派な模範にすぎなくなります。

「この方と同じように行いなさい、そうすれば救われますよ」

という考え方だからです。

しかし思いや言葉や行いで神様の戒めを完璧に守れるかどうか試してみれば、

それが不可能であることがわかることでしょう。

これは溺れている人に向かって

「自分で自分を救いなさい」と命じるようなものだからです。

 

神様が憐れみ深いお方であり

私たちのために十字架で死なれた御子を通して

人間との平和な関係をすでに用意なさっている

という福音のメッセージを聴くのは慰めをもたらします。


たしかに神様の律法は私たちの罪を明るみに出すものですが、

その一方では、恵みが罪の赦しを叫び続けてくれています。


真理は罪人の死を要求します。

しかしその一方では

「恐れるな、あなたの罪は帳消しにされているのだから」

という平和の御言葉が罪の呵責に苦しむ人々に宣べ伝えられています。


神様の聖さは義を要求します。

しかしその一方では

「キリストを信じる者は一人として地獄には落ちず、永遠の命を持つことになる」

という声を神様の愛があげてくれています。

 

(祈り)神様、私たちが罪に魅惑されて、

その罪がたいしたものではないかのように錯覚してしまうとき、

どうか私たちの眼差しをゴルゴタの十字架へと向けてください。

それによって、

あなたが罪に対してどのような態度を取られるか

私たちが思い起こすようになるためです。

また罪が私たちをおびえさせ絶望させるときには、

すべての罪が赦されたことを知るために

私たちの眼差しを十字架につけられた救い主へと向けてください。アーメン。

(関連聖句)「ガラテアの信徒への手紙」3114

2023年2月1日水曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」16章24節「願いなさい、そうすれば与えられます」

「願いなさい、そうすれば与えられます」

今まであなたがたは私の名によって何も求めたことがありませんでした。

求めなさい、そうすれば、与えられます。

これはあなたがたの喜びが満ち溢れるためです。

(「ヨハネによる福音書」1624節)

 

主の主、王の王なる全能の神様の御前に

毎日の祈りを通して行くことができるのは不思議な恵みです。

さらに不思議なのは、

主が私たちの祈りを聴くことを約束してくださっていることです。

 

この約束は信じられないほどすばらしいものです。

 

私たちはイエス様の御名によって願うとき、与えられます。

それは私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。

イエス様御自身がこのように言っておられるのです。

そしてイエス様がうそをつくことは決してありません。

 

とはいえ、これは

家とか自転車とか教会とか願ったものは何でも当然のように手に入る

という意味ではありません。

 

イエス様の御名によって願うというのは、

私たちはイエス様が認めてくださるものだけをいただくことができる

という意味だからです。

このような意味で祈るとき、

天の父なる神様は私たちが祈るものを与えてくださることを確信してよいのです。

 

「求めなさい、そうすれば、与えられます。

それはあなたがたの喜びが満ち溢れるためです」。

もしも私たちの祈りがこの世的なものばかりに向けられるならば、

私たちの喜びは完全なものではありえません。

しかし「上にあるもの」を求めるとき、

私たちはそれをイエス様の御名によっていただけますし、

完全な喜びも与えられるのです。

  

(祈り)あなたの尽きない善い御本質に私は心から信頼します。

あなたの子どもたちは天の御父様の御許にいつでも避難できます。

あなたからの賜物は私自身の行いの報酬として得られるものではなく、

御父様、あなたの恵みによって与えられるものです。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」162330