2021年3月26日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」20章23節「鍵の権能」

「鍵の権能」

あなたがたが赦す罪は誰の罪でも彼らに対して赦されており[1]

あなたがたが赦さずにおく罪は赦されないままになっています[2]

(「ヨハネによる福音書」2023節)

 

復活されたキリストは

弟子たちにどれほど大きな権能を授けておられることでしょうか!

この権能はこの地上のキリスト教会に今もなお与えられています。

それは、罪の赦しの福音を宣べ伝えて罪の赦しを宣言する権能です。

それはまた、自分の罪を悪いと思わず悔い改めようとしない者たちの罪を

赦されないままにする権能でもあります。

 

福音はこの世の唯一の希望です。

それは天の御国への扉を開いてくれます。

他のどのようなことも

私たちを永遠の滅びの苦しみから救い出すことはできません。

もしも人々が復活された救い主の福音を受け入れたならば、

彼らの人間関係はどれほど変わることでしょうか!

 

罪の赦しを受け入れた人は、

たんに良心の平安を得るだけではなく、

他の人々とも平和な関係を築くようになります。

その人はすべての人々と共に平和に生きたいと願い、

怒りや仲たがいを乗り越えることができます。

 

しかし、福音は罪との間違った平和を保ったりはしません。

福音はこの世的なものに対しては明確な境界線を引きます。

この世は終わりまでこの世的なものでありつづけます。

救い主を憎むこの世において、キリスト信仰者は「寄留の民」なのです。

 

(祈り)平和の神様、

人知ではとうてい測り知ることのできない神様の平安が、

私たちの心と思いとをキリスト・イエスにあって守り[3]

私たちを平和の建設者とし、

私たちが平和の福音を心から信じられるように助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」201923



[1] ギリシア語の動詞は受動態完了形。

[2] ギリシア語の動詞は受動態完了形。

[3] (「フィリピの信徒への手紙」47節。

2021年3月12日金曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」15章20節「私たちもまた、死者の中からよみがえります」

「私たちもまた、死者の中からよみがえります」 

今やキリストは眠っている者たちの初穂として

死者たちの中からよみがえられました。

(「コリントの信徒への第一の手紙」1520節)

 

死んだ人は皆、最後の日によみがえらされます。

ここで使徒は、とりわけキリストにあって眠りについた

信仰者たちの復活について語っています。

 

死者たちの中からよみがえった初穂として、

キリストは、信じる者皆がよみがえらされることを保証してくださる方です。

キリストは、身体が栄光を受けて死者たちの中からよみがえる

祝福された者たちの中で最初のお方です。

キリストに起こったのと同じことが私たちの上にも起こります。

たとえ私たちの身体が海に埋葬されたとしても、

あるいは教会の墓地に埋葬されたとしても、

あるいはどこかにすっかり消えてしまった場合であっても、

それでも神様は私たちのことを忘れずに世話してくださり、

栄光を受けるために集めてくださいます。

 

復活が確かに起こることは私たちを慰めてくれます。

キリストのように、私たちもまた命に満たされてよみがえるのです。

キリストの墓と同じように、

私たちの墓は開かれ、

私たちの身体はキリストの栄光の身体と似たものに変ります。

 

信仰をもって愛する者を墓に入れるとき、

私たちは希望のない者のように悲しむ必要がありません。

キリストにあって眠りについた者は、キリストにあってよみがえります。

墓は一時的な休息の場に過ぎません。

最後の大いなる過越しのラッパが鳴り響くとき、

彼らは不死の身体とともに天の栄光に包まれてよみがえります。

イエス様の善きみわざは完成しました。

それを始めたお方は確実にそれを完遂なさいます。

 

(祈り)主なるイエス様、

最後の日に私たちの身体が

あなたの栄光の身体と似たものに変えられてよみがえるように、

どうか私たちの間でお始めになったあなたのみわざが完遂されますように。

アーメン。

(関連聖句)「テサロニケの信徒への第一の手紙」41318

2021年3月5日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」11章25~26節 「復活の力」

「復活の力」

イエス様は彼女に言われました、

「私はよみがえりであり、命です。

私を信じる者は、たとえ死んでも生きることになります。

また、生きていて私を信じている者は永遠に死にません。

あなたはこれを信じますか」。

(「ヨハネによる福音書」112526節)

 

「死は勝利にのまれてしまったのです。

死よ、お前の勝利はどこにありますか。

死よ、お前の棘はどこにあるのですか」

(「コリントの信徒への第一の手紙」1555節)とあるように、

イエス様の復活の後に残された空っぽの墓は

イエス様が死に対して勝利なさったことを証しています。

にもかかわらず、死は私たちを依然として脅かし続けています。

私たちは毎年イースター(イエス様の復活を記念する聖日)をお祝いします。

それなのに、死を面と向かって見つめるときには恐れを抱かずにはおれません。

 

死者の中から復活されたイエス様は今も生きておられます。

それなのに、どうして私たちは

神様の御言葉と約束をなかなか信じ切ることができないのでしょうか。

死はキリスト信仰者にとっては流れ去る雲のようなものに過ぎません。

死が過ぎ去ると、キリストという命の光が永遠に輝くのです。

 

人間の常として私たちは死を嫌悪します。

なぜなら、死は私たちの敵であり、

罪深い存在である全人類が受けるべき当然の報いだからです。

罪人である私たちはいつか必ず死ななければなりません。

しかし、イエス様が私たちの身代わりとして

死を味わい尽くしてくださった結果、死のとげは折られ、

死に対するイエス様の勝利は確定しました。

イエス様への信仰は私たちを復活の力にあずからせます。

これは信仰が人間の本質的な限界を超えるものだからこそ可能なことです。

 

今や私たちは死から命へとすでに移っています。

死すべき自分の身体が不死の身体、

キリストの身体に似たものとしていつか復活するのを

私たちはすでに今見ています。

イエス様は私たちにとって魂や霊だけではなく身体の救い主でもあります。

御自分の身体によってイエス様は

私たちの罪を十字架へと運んでくださったのです。

イエス様は死者の中から復活し、永遠に生きておられます。

そして、私たちもまた生きることができるのです。

 

(祈り)命の主イエス・キリストよ、

あなたは私たちを死の恐怖のくびきから解放してくださいました。

どうかあなたの復活の力を私たちが日々体験できるようになさってください。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」11127