2020年12月18日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」19章28節「活ける水の源泉」

「活ける水の源泉」 

その後、イエス様はすべてがすでに終ったことを知って

「私は渇く」と言われました。

それは聖書が成就するためでした。

(「ヨハネによる福音書」1928節)

 

十字架上で焼け付くような喉の渇きに苦しむイエス様に

飲み物として差し出されたのは酢いぶどう酒でした

(「ヨハネによる福音書」1929節)。

こうしてイエス様は私たちの「罪深い渇き」を癒してくださったのです。

それは大酒飲みの喉の渇き、

金持ちになりたいという渇望、

不義の欲望などのことです。

 

そもそも「水漏れするひび割れた水がめ」を欲しがる必要がありましょうか。

そのようなものばかりに心を奪われている人は、

生前に貧しいラザロを無視し贅沢三昧に暮らしていた金持ち

(「ルカによる福音書」161931節)と同じように

地獄で癒されることのない渇きに苦しみ続けることになってしまうのですから。

 

今や私たちの罪深い渇きを癒されたイエス様は「活ける水の泉」となって、

荒野で渇きに苦しんでいる人々を招いておられます。

 

「誰でも渇く者は私のところにきて飲みなさい」

(「ヨハネによる福音書」737節より)。

 

イエス様は罪の赦しによる平和を私たちに提供し、

私たちの渇きを癒してくださいます。

イエス様は私たちが神様の御心に適う生活をするために必要なことを

すべて私たちにプレゼントしてくださいます。

 

「(土地の配分を決める)測りなわは私にとって好ましい場所に落ちました。

しかも、その嗣業は私にとって麗しいものでした」

(「詩篇」166節)。

 

「神様を畏れる信仰をもって足ることを知るのは大きな利得です」

(「テモテへの第一の手紙」66節)

 

これらの御言葉を私たちは実際に体験することができるようになります。

 

イエス様は私たちの幸せと救いを渇望しておられます。

罪を悔い改めない自分の不信仰な心を「酢いぶどう酒」として

イエス様に差し出そうなどとはあなたはまさか思わないことでしょう。

イエス様の御許に私たちは行くことができます。

なぜなら

「私がその人のために与える水を飲む者は永遠に渇くことがないばかりか、

私がその人のために与える水はその人のうちで泉となり、

永遠の命に至る水が湧き出ることでしょう」

(「ヨハネによる福音書」414節)

という約束をイエス様は実現してくださるからです。

  

(祈り)主イエス様、あなたの御言葉が私たちのうちに渇きをおぼえさせ、

私たちが救いの泉から水を汲むようにお計らいください。

アーメン。

(関連聖句)「詩篇」221322

2020年12月11日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」27章46節「小羊への讃美」

「小羊への讃美」

そして午後三時頃にイエス様は大声で叫んで

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われました。

それは

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」

という意味です。 

(「マタイによる福音書」2746節)

 

そして言(ロゴス)は肉体となり、私たちのうちに宿りました。

私たちはその栄光を見ました。

それは独り子が御父から受ける栄光であって恵みと真理とに満ちていました。

(「ヨハネによる福音書」114節)

 

主イエス様は天の御父の独り子です。

それでも、主は十字架の上で死と戦っている時に

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

御父に見捨てられた御子は

永遠に滅びる者たちの地獄の苦しみを引き受けてくださったのです。

神様の完全な呪いとは神様に見捨てられてしまうことです。

私たちに対する愛のゆえに、

イエス様はこのすさまじい地獄の苦しみに耐え抜いてくださいました。

それは、

御自分を救い主として受け入れる人たち皆に対しては

地獄へのの門が閉ざされて落ちていかないようにするためでした。 

 

御父が御子に私たちの身代わりとして地獄の苦しみを与えられたところに、

人類に対する御父の深い愛が示されています。

 

十字架に背を向けてこの愛を捨てることがどうしてできるでしょうか。

あなたもまた信仰を通してこの愛を受ける対象とされて

「御座にいます方と小羊とに

讃美と誉れと栄光と権能とが世々限りなくありますように」

(「ヨハネの黙示録」513節より)

と小羊を讃美する群れの一員になれるというのですから。

 

おひとり小羊イエス様が永遠に讃美されるべきお方です。

イエス様は御自分の血によって私たちを罪から解放してくださったからです。

 

(祈り)主イエス様、

あなたは十字架の死にいたるまで私に仕えてくださいました。

どうか私があなたにお仕えして

「あなたのもの」すなわち「あなたの愛の対象」として

永遠に生きることができるように助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ヘブライの信徒への手紙」101425節 

2020年12月4日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」19章26~27節「新たな希望」

「新たな希望」

イエス様は御自分の母親と愛弟子とが傍に立っているのをごらんになり、

母親に言われました、

「婦人よ、ごらんなさい、これはあなたの息子です」。

それからこの弟子に言われました、

「ごらんなさい、これはあなたの母親です」。

そのときから、この弟子はイエス様の母親を自分の家に引きとりました。

(「ヨハネによる福音書」192627節)

 

イエス様は御自分を十字架につけた者たちのために罪の赦しを祈りました。

そのおかげで、今の私たちにも罪の赦しがあるのです。

死は悔い改めた犯罪人をイエス様から引き離すことができませんでした。

死は私たちのこともイエス様から引き離すことができません。

死の苦しみの最中にあっても

イエス様は御自分の母親や愛弟子のことをお忘れにはなりませんでした。

 

苦しみと絶望に耐えながら、

イエス様は彼ら二人を互いに「親子」となさいました。

そして、彼らのために御自分を死に渡されたのです。

その時からはじまった新たな家族としての彼らの年月は、

どちらにとってもイエス様の十字架に基づいた

新たな希望に満ちた人生となりました。

 

これは今でも変わりません。

すべてのキリスト信仰者についてイエス様はこう言われます、

「これらの人々は私の母親であり兄弟姉妹なのです」

(「ルカによる福音書」821節を参照してください)。

イエス様にあって私たちには皆、活ける希望があります。

 

イエス様は御自分の子ら(弟子たち)が

互いに面倒を見合うことを望んでおられます。

イエス様は私たちに互いを愛し合う心を与えてくださいます。

私たちは互いの心の中に活ける希望をもつことができます。

イエス様は私たちの唯一の希望であり支えなのです。

イエス様は御自分の血によって

私たちを罪から解放して活ける希望へと新たに生んでくださいました。

神様の家族の一員である私たちには

「子たちよ、あなたがたは互いに愛し合いなさい」

という主の新たな戒めが課せられています。

 

(祈り)主イエス様、あなたは私たちの希望です。

私たちの希望が満たされ、

信仰が見えるものに変り、

愛が完全なものになるまで、

どうか私たちを活ける希望の中に留まらせてください。

アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」5111

 

2020年11月27日金曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」23章39~43節 「イエス様の愛」

「イエス様の愛」

 

(イエス様と一緒に)十字架にかけられた犯罪人のひとりが

「あなたはキリストではないか。自分を救い、また我々も救え」

とイエス様に悪口を言いつづけました。

しかし、もうひとりは彼をたしなめました。

「お前は同じ刑罰を受けている身でありながら、神様を畏れないのか。

我々は自分のしでかした事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。

しかし、この方は何も悪いことをしていない」。

そして「イエス様、あなたが御国に入られる時には私を思い出してください」

と言いました。

イエス様は「よく言っておきますが、

あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいることになるでしょう」

と言われました。

(「ルカによる福音書」233943節)

 

これは今まさに死にかけている犯罪人の祈りです。

彼自身が告白するところによれば、

彼は当然の報いとして十字架刑を受けたのです。

それなのに、どうして彼は自分のことを思い出してくれるように

イエス様に対してお願いする勇気をもつことができたのでしょうか。

 

彼はイエス様が「御父様、どうか彼らを赦してください。

彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」

(「ルカによる福音書」2334節)と祈るのを聴いていました。

御自分を十字架につけた殺人者たちのためにさえ祈られるこのお方は

きっと自分のような哀れな犯罪人のためにも祈ってくれるはずだ、

と彼は考えたのではないでしょうか。

今、彼は心から罪の赦しを必要としていました。

そして、最後の最後にイエス様の愛が彼に触れたのです。

信仰の手がイエス様へと向かって差し出され、

彼はそれから終わりまでずっとイエス様にしっかりとおすがりしたのです。

イエス様の愛は偉大です。

 

この信仰のもつ勇気をごらんなさい。

彼はイエス様が侮辱されるのをその場で聞いていたのに、

それでもイエス様をわが主として祈ります。

イエス様の見捨てられたお姿を実際に見ているのに、

イエス様こそが王であると告白します。

死の只中にあって、信仰はイエス様の御許へまっすぐ向かいます。

イエス様だけが助けを差し伸べることができるし、

またそうしたいとも望んでおられ、

しかもすぐに対応してくださるのです。

 

私が生きている時や死ぬ時に、

イエス様は私のことも覚えていてくださるのでしょうか。

イエス様は次のように答えてくださることでしょう、

「子よ、私はあなたのことを覚えていますよ。

私は血によってあなたをあがなったのです。

私は洗礼を通してあなたと永遠の契約を結んだのです。

私は自分の平和をあなたに授けます。

あなたの心が悲しみに沈んだり恐れたりすることがないようにしなさい」。

 

(祈り)主イエス様、追い詰められている私の心を、

どうかあなたの御旨にかなう平和によって鎮めてください。アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」83139

2020年11月20日金曜日

「力なき者に力を」「詩篇」2篇8節「イエス様の祈り」

 「イエス様の祈り」

私に願い求めなさい。

私は異邦の民をあなたの嗣業として、
地の果てをあなたの所有として与えます。

(「詩篇」28節)

 

その通りにイエス様は願い求めました。

御父様からの苦い盃を飲み干すとき、

イエス様は御自分を十字架につけた人々のことを

御自分にとって大切な人々とみなして祈ってくださいました。


「御父様、どうか彼らを赦してください。

彼らは自分が何をしているのか、わからずにいるのです」

(「ルカによる福音書」2334節)。

 

イエス様のあがないのみわざによって、

義なる神様と罪深き人間存在との間に「真の和解」がもたらされないかぎり、

罪の赦しは決して実現しません。

イエス様は(人という)「奴隷の姿」になられただけではなく、

「罪の奴隷」たる全人類の罪過を全て肩代わりし、

死の苦しみを受けてくださったのです。

 

イエス様はあたかも次のように言われたいかのようです。

「御父様、私の受けた辛い苦しみと私の血のゆえに、

どうか彼らの罪を赦してください。

彼らを「私のもの」としてください。

御父様、あなたが約束なさったように、

異邦の民を私の嗣業として、地の果てを私の所有として与えてください。」

 

天の御父様はこの祈りを聴いてくださいました。

御父様は私たちの罪を、私の罪を赦してくださいました。

私の罪がイエス様を十字架につけたのです。

私のためにイエス様は苦しみを受けられたのです。

 

死の恐怖さえもイエス様の愛を吹き消すことができませんでした。

この上なく高価な代償を払うことによって、イエス様は

人間ひとりひとりを「御自分の所有」とする権利を得てくださったのです。

十字架に高くあげられたイエス様は

御父がすべての人を御許へ引き寄せてくださるようにと祈ります。

イエス様は「皆のもの」ですし、

すべての国民は「イエス様の嗣業」なのです。


(祈り)天の御父様、

裁きを受けるのが当然な罪人として、私たちはあなたの御前に立っています。

私たちを裁きから守ってくれるのは、

あなたの愛する御子の祈りとあがないの血をおいて他にはありません。

御父様、どうかイエス様の祈りを聴いて、私たちの罪を赦してください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの第一の手紙」13節~22

2020年11月11日水曜日

「力なき者に力を」「箴言」23章26節「あなたの心を守りなさい」

「あなたの心を守りなさい」

 

わが子よ、あなたの心を私に与え、あなたの目を私の道に注ぎなさい。 

(「箴言」2326節)

 

神様が人をごらんになるとき、

その人の身長や体格ではなく心に注目なさいます。

それゆえ、神様はエッサイの息子たちの中から

ダヴィデを御民の王として選ばれたのです。

「よく警戒して、あなたの心を守りなさい、

命はそこから流れ出るからです」(「箴言」423節)

と主は言われます。


不信仰な人間の心から悪い欲望と考えが出てきます。

それらから悪い行いやありとあらゆる不義の振る舞いが生じます。

「神様の子ども」の心が信仰において、

罪を帳消しにするキリストの血によってやましい良心を清められるとき、

聖霊様は心の中に清い考えや欲求や好ましい行動の火を点します。

それらは神様に喜んで受け入れていただける言葉と行いとなってあらわれます。

 

心を支配する者はその人を支配します。

福音を通して主の御声を聴き、福音の力によって主に心を開くとき、

主はその人の心に住みに来られます。

主はその人の心を死んだ行いから清めて、

活ける神様に仕えるようにしてくださいます。

私たちはこうして「神様のもの」になるのです。

 

このことのゆえに

「兄弟たちよ。

あなたがたのうちの誰も不信仰な悪い心をいだいて

活ける神様から離れ去ったりしないように気をつけなさい」

(「ヘブライの信徒への手紙」312節)

と言われているのです。

罪が依然として私たちの中に住んでいるのはたしかです。

しかし、私たちは自分が罪を行うのを追認はせず、罪と戦います。

私たちは「清めの泉」から罪の赦しによって力をいただきます。

  

(祈り)主よ、あなたの御霊の光を与え、私に清い心を形作ってください。

どうか私を恵みの冠で美しく飾り、真理において強めてください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの第一の手紙」3112

2020年10月30日金曜日

「力なき者に力を」「イザヤ書」42章3節より「葦と灯心」

「葦と灯心」

傷ついた葦を折ることもなく、
ほのぐらい灯心を消すこともありません。

(「イザヤ書」423節より)

 

これは弱々しい人々に同情する神様の憐れみの心を描いています。

「傷ついた葦」という言葉ほど的確に

人間のみすぼらしさを表す言葉が他にあるでしょうか。

「ほのぐらい灯心」という言葉ほど正確に

人間の頼りなさを示す言葉が他にあるでしょうか。


しかし、あなたは私たちの救い主の愛を見つめなさい。

この方は傷ついた葦を折ることもなく、

ほのぐらい灯心を消すこともありません。

主は葦を整え、灯心から燃えかすを取り除いてくださいます。

イエス様は罪を赦してくださいます。

主は傷口に包帯を巻いて癒してくださいます。

主は臆病な者を勇気付け、弱い者を強めてくださいます。

 

ひどい呪いの言葉をはいて「私は救い主を知らない」と言ったあの夜に、

ペテロはいかに「ひどく傷ついた葦」であったことでしょうか。

皆が皆ゲッセマネで恐れをなし主を捨てて逃げ去ったあの夜、

弟子たちはいかに「暗い灯心」であったことでしょうか。

それでも、イエス様はペテロをくじいたり、

弱い弟子たちのほのぐらい信仰のともし火を消したりはなさいませんでした。

 

傷ついた良心や、悲しみに痛んだ心や、泥に塗れた人生を、

救い主は踏みにじることはなさいません。

主はその血によって私たちの良心をきよめ、恵みによって心の傷を癒されます。

主は疲れた者を元気付け、弱い者を強めてくださいます。

私たちがどのような存在か、主はよくご存知です。

 

(祈り)主よ、信仰が消え入りそうです。

恵みの朝が訪れるように火を点してください。

あなたの御霊はほのぐらい灯心に新たな火をくださいますから。

アーメン。

(関連聖句)「エゼキエル書」41416

2020年10月21日水曜日

「力なき者に力を」「詩篇」2篇4節「主は彼らを笑われる」

「主は彼らを笑われる」

天に座する方はお笑いになり、
主は彼らをあざけられるでしょう。 

(「詩篇」24節)

 

主はあざける者をあざけられます。

あざけ笑う人々に対して、天に座するお方である主はお笑いになります。

 

主を拒む異教的なこの世は、

たとえどれほど怒り狂ったところで、

神様と御子とその教会を滅ぼすことはできません。

そのような試みは常に失敗に終わってきました。

教会の初期の時代の迫害はその実例です。

ローマ帝国はキリスト教を滅ぼそうとして躍起になりました。

しかし、今でも世界の多くの場所には十字架が高く立っています。

 

キリスト教大迫害の先鋒に立ったローマ皇帝ディオクレティアヌスは、

イエス様の御名がもう決して口にされることがなくなるまで

キリスト教を徹底的に叩き潰すと決意しました。

ところが、彼の大帝国はとうの昔に滅亡しました。

その一方で、今に至るまで

キリストの御国は世界のすみずみにまで拡大し続けてきています。

 

ローマ皇帝ユリアヌスは以前信仰していたキリスト教を捨てた後で、

今度は国家の威信にかけてキリスト教を根絶しようとしました。

しかし、戦いに敗れ致命傷を受けた彼は

「ガリラヤ人よ、お前の勝ちだ」と言うほかありませんでした。

 

今もなお十字架は立ち続けています。

 

あらゆる学問、研究、芸術などの影響や成果が、

また、錚々たる国家の一群の威信とそれが所有している殺戮兵器とが、

キリストとキリスト教会とを攻撃しようとして照準を合わせる場合であっても、

教会の十字架は立ち続けます。

聖書の約束する通り、地獄の門もそれに勝利することはできないからです

(「マタイによる福音書」1618節)。

 

(祈り)主イエス様、

私がおわりまでしっかりと立ち続けることができるように、

これまでひっそりと存続してきた真のキリスト教会がもっている忍耐を

どうか私にも分け与えてください。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」2

2020年10月9日金曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」5章7節より「仕事仲間」

「仕事仲間」

彼らは別の舟にいた仲間に助けに来るよう合図をしました。

(「ルカによる福音書」57節より)

 

漁師たちが仲間同士で協力して仕事をする様がここに描かれています。

それには大きな意味がありました。

 

ペテロの舟の上から岸にいる群衆に話しかけられた後、

イエス様は舟をさらに沖に出して網を放つようにお命じになりました。

弟子たちがその通りにしたところ、

おびただしい魚が入ってきて網が破れそうになりました。

 

この大漁はイエス様の行われた奇跡でした。

御自分に従ってきたゲネサレ湖の漁師たちに

イエス様は魚を取って集めるようにお命じになりました。

舟に乗っていた彼らは皆協力し合い、とれた魚は両方の舟を一杯にしました。

これが仲間と一緒に仕事をするということです。

 

神様の御国の仕事では、

同じ信仰と信条によって活かされている者同士が

一致協力して働くことが必要不可欠です。

もしも協力し合う仕事仲間がいなければ、

とれるはずのたくさんの魚も逃してしまいます。

この仕事では争いや嫉妬や自己中心さや私益の追求は禁物であり、

神様の御言葉への忠実さが必要とされます。

 

とれた魚はイエス様が与えてくださった祝福です。

心を一つにして福音の教えを信じ、

御言葉の網によって(人間という)魚をとる伝道の仕事を

皆で力を合わせて行っていこうではありませんか。

そうするときに、

イエス様は共におられてたくさんの魚をとれるように祝福を与えてくださいます。

主の御言葉はむなしく主の御許に戻ることがありません

(「イザヤ書」5511節より)。

必要なのは御言葉への忠実さとよい仕事仲間です。

 

(祈り)イエス様、あなたなしでは私たちは何もできません。

あなたを通してのみ、私たちはすべてを行うことができます。

どうか私たちが心を一つに合わせて

あなたと共に仕事に打ち込めるように助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」517

2020年10月2日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの黙示録」21章6節より「はじめとおわり」

「はじめとおわり」

 

私はアルファでありオメガ、はじめでありおわりです。 

(「ヨハネの黙示録」216節より)

 

ギリシア語のアルファベット表で

アルファは最初の文字、オメガは最後の文字です。

もしもイエス様が日本語を話されたのなら

「私は「あ」であり「ん」である」と言われたのではないでしょうか。

イエス様は始める方でもあり終わらせる方でもあります。

 

イエス様は神様が造られた世界の「はじめ」です。

イエス様の中でこの世界は始まりました。

またイエス様は万物を維持しておられます。

そして、いつかこの世に戻って来られて、それを終わらせるのです。

 

死と復活によってイエス様は、

人間には始めることも付け加えることも不可能な

まったく新しいことを創造なさいました。

イエス様は義なる神様と罪人なる人の間に和解をもたらしました。


イエス様は罪とされ、

そのかわりに、

本来罪を担うべきである者がイエス様のゆえに義と宣言されました。


イエス様は呪いとされ、

そのかわりに、

本来呪われた存在である者が祝福を受けることになりました。


死なないはずの方が死んで、

そのかわりに、

死を宣告された者に永遠の命が賜物として差し出されるようになりました。

 

イエス様は御霊を通して私たちを新たに創造され、

私たちの心に信仰の火をともしてくださいました。


イエス様のあふれるほど豊かな恵みにより、

私たちには罪の赦しの平和と救いの喜びがあります。


以前遠くにいた私たちは

今やキリストの血を通して近くにくることができました。


死んでいた私たちは今では活きており、

イエス様の苦難にあずかり復活の力を受けることができるのです。

 

「私たちは神様の作品であって、

神様があらかじめ備えてくださったよい行いをするように、

キリスト・イエスにあって造られました。

それは、それらよい行いの中を私たちが歩んでいくためです」

(「エフェソの信徒への手紙」210節)。

 

(祈り) 始める方であり終わらせる方である主イエス様、

私の中で始めてくださったあなたのよい行いを

どうか最後まで仕上げてください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの黙示録」2117