「活ける水の源泉」
その後、イエス様はすべてがすでに終ったことを知って
「私は渇く」と言われました。
それは聖書が成就するためでした。
(「ヨハネによる福音書」19章28節)
十字架上で焼け付くような喉の渇きに苦しむイエス様に
飲み物として差し出されたのは酢いぶどう酒でした
(「ヨハネによる福音書」19章29節)。
こうしてイエス様は私たちの「罪深い渇き」を癒してくださったのです。
それは大酒飲みの喉の渇き、
金持ちになりたいという渇望、
不義の欲望などのことです。
そもそも「水漏れするひび割れた水がめ」を欲しがる必要がありましょうか。
そのようなものばかりに心を奪われている人は、
生前に貧しいラザロを無視し贅沢三昧に暮らしていた金持ち
(「ルカによる福音書」16章19~31節)と同じように
地獄で癒されることのない渇きに苦しみ続けることになってしまうのですから。
今や私たちの罪深い渇きを癒されたイエス様は「活ける水の泉」となって、
荒野で渇きに苦しんでいる人々を招いておられます。
「誰でも渇く者は私のところにきて飲みなさい」
(「ヨハネによる福音書」7章37節より)。
イエス様は罪の赦しによる平和を私たちに提供し、
私たちの渇きを癒してくださいます。
イエス様は私たちが神様の御心に適う生活をするために必要なことを
すべて私たちにプレゼントしてくださいます。
「(土地の配分を決める)測りなわは私にとって好ましい場所に落ちました。
しかも、その嗣業は私にとって麗しいものでした」
(「詩篇」16篇6節)。
「神様を畏れる信仰をもって足ることを知るのは大きな利得です」
(「テモテへの第一の手紙」6章6節)
これらの御言葉を私たちは実際に体験することができるようになります。
イエス様は私たちの幸せと救いを渇望しておられます。
罪を悔い改めない自分の不信仰な心を「酢いぶどう酒」として
イエス様に差し出そうなどとはあなたはまさか思わないことでしょう。
イエス様の御許に私たちは行くことができます。
なぜなら
「私がその人のために与える水を飲む者は永遠に渇くことがないばかりか、
私がその人のために与える水はその人のうちで泉となり、
永遠の命に至る水が湧き出ることでしょう」
(「ヨハネによる福音書」4章14節)
という約束をイエス様は実現してくださるからです。
(祈り)主イエス様、あなたの御言葉が私たちのうちに渇きをおぼえさせ、
私たちが救いの泉から水を汲むようにお計らいください。
アーメン。
(関連聖句)「詩篇」22章13~22節