2011年2月28日月曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」7月11日~15日


 
711

人々があなたたちにしてくれるようあなたたちが望んでいるすべてのことを、同じようにあなたたちも彼らに行いなさい。なぜなら、これが律法と預言者[1]だからで
マタイによる福音書712節)

もしも人々がふさわしからぬことを行っているところに出くわしたなら、それについて他の人に吹聴したりせず、誰もそれを見ないようにドアを閉めなさい。それからしかるべき叱責を行いなさい。しかしそれでとどめておきなさい。なぜかというと、あなたも自分の場合にうしてもらいたいと思っているでしょうから。



712

あなたの右の頬を打つ者には、もうひとつの頬をも向けてやりなさい。あなたに対して訴訟を起こし下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたを強いて1ミリオン行かせようとする者には、その人と共に2ミリオン行きなさいマタイによる福音書539後半~41節)

もしも人殺しが森で、あるいは邪悪なならず者が通りで、私に襲いかかろうとして、私がそのとき警察など公的権力に助けを求めることができない場合には、私は彼らが私を傷つけ殺すままにまかせるべきなのでしょういいえ。なぜなら、公的権力各人に暴力や悪意から自分の命を守る権利を与えているからす。



713

この世の生活に必要なものをも自分の兄弟が困窮しているを見ているのに、その人に対して心を閉じるような者に、どうして神様の愛がとどまることがあるでしょう
ヨハネによる第の手紙317節)

クリスチャンとして私は、信仰によって自分自身の立場を思い出してこううべきです、私は、キリストが御自分のからだと血とを私の(信仰の)兄弟のためにも与えてくださったことを知っていながら、その兄弟を傷つけたり困窮から助けず放置するべきでしょうか」神様の御子を信じて、言葉では表せない永遠の宝を受け取ったクリスチャンの心が、どうしてその隣り人を危機の只中に置き去りにできるでしょうか?



714

それは、他の人たちに楽をさせてあなたたちに苦しい思いをさせるためではなく、均衡実現するためで
コリントの信徒への第の手紙813節)

あなたが苦しんでいる人を助けることによって自分が子供もろとも苦しい状況に陥るのは主なる神様の御心ではありません。パウロがこう言っている通りです、「それは、他の人たちに楽をさせてあなたたちに苦しい思いをさせるためではありません



715

あなたたちの中は義務を怠った生活を送り、働きもせずに、いたずらに徘徊している者たちがいるということを、私たちは聞いています。私たちは彼らに対して、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧めます
テサロニケの信徒への第の手紙31112節)

あなたは、怠けたりお金を無駄遣いしたわけでもないのにお金が無くて困っている人たちを助ける義務があります。多くの人は自分で生活費を稼ぎたいと望んでいますが、かないません一方では、自分で十分に生活費をまかなえるのに、収入以上の贅沢な生活をしている者もいます。そのような者たちを助けてはいけません。もし助ければ、彼らが不正にお金を集めることに手を貸すことになるからで


[1] 原文は複数(「預言者たち」)。

2011年2月24日木曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」7月6日~10日

 
76

神様は今日は生えていて明日は炉に投げ入れられる野の草さえこのように装ってくださるのですから、あなたたちをより大切に装ってくださらないわけがありません。信仰の弱い者たちよ。
マタイによる福音書630節)

もしも仮に神様の特別な秩序とお造りになった世界とがのようなものではなかったとすれば、いろいろな花も色や葉や花びらなどの点で今の私たちの世界の花ほど互いに似てはいなくて、もっとでたらめになっていたことでしょう。もしも神様が、私たちが刈り取ったり動物がそれを食べたりするためだけに生えている草さえ世話してくださっているのですから、神様私たちを装ってくださるかどうか疑い続けるのは深く恥ずべきことではないでしょうか。



77

この世で富裕である者たちに対して、高慢にならず、不確かな富に望みをおかずむしろ、私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様に望みをおくように[1]命じなさい。
テモテへの第の手紙617節)

もしも主があなたにこの世のよいものを豊かに与えてくださるならば、それを主の栄光のために用い、主の善性を喜びなさい。ただし、花婿から高価な指輪を受け取った花嫁のように喜びなさい。花嫁は、指輪が高価であることを喜ぶのではなく、彼女がそれを花婿の栄光のために身に着けるようにと花婿がそれを与えてくれたことを喜ぶので。神様はあなたを自分の善性によって祝福なさいました。その神様の善性のおかげで、あなたの心やわらかくなり、神様を感謝するようになりますように。



78

愛する者たち、自分で復讐しないで神様の怒りに委ねなさい[2]。「『復讐は私のすることで。私自身が報復します』と主は言われますと書かれてるからで
ローマの信徒への手紙1219節)

この神様の怒りと復讐は様々なかたちで実現しますあるときには公的権力を通して、またあるときには悪魔や病気や飢饉や疫病や火事や水害や戦争や敵意や侮辱やあらゆる事故や不幸を通して、それはやってきます。なぜなら、神様は罰するときにあらゆる被造物を御自分の鞭や武器として用いられるからで



79

どうか今あなたが彼らの罪を赦されますように。しかし、もしもそれが適わないのなら、あなたが書き記されたあなたの書物から私を消し去ってください。
出エジプト記3232節)

民が救われるためには自分が悪魔の支配に落とされ身体や魂が裁かれることさえ辞さない人間(モーセ)は、優しく好ましく親切な者ではないでしょうしかし、問題が公的権力の職務に関わる場合には、(神様から)支配を委ねられた者としてモーセは神様の怒りを鎮めるために23000人を殺したので



710

あなたの右の頬を打つ者には、もうひとつの頬をも向けてやりなさい。あなたに対して訴訟を起こし下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたを強いて1ミリオン[3]行かせようとする者には、その人と共に2ミリオン行きなさいマタイによる福音書539後半~41節)

これはあなたは自分で復讐するのをこらえて苦しみを甘受し、天の裁き主を待ち望まなければならないという意味で。神様は、この世の公的権力がともすると陥りやすい寝惚けた不真面目な態度で職務を遂行たりはなさいません。しかしここでキリストはあなたがひどい扱いを受けたときにあなたに沈黙を命じてはおらず、公的権力に苦情を伝えることを禁じてもいません
 あなたはこう訊くかもしれません、「私にひどいことをした者に対して私が訴訟を起こすのは、私が復讐を要求していることになるのではないでしょうか」。答え「そのとおり。法律と秩序に基づいて、あなたの隣り人に対して怒りをもたずに行うとき、あなたは正しく行っています。なぜならそれはあなた自身の復讐ではなく神様が定められた神様の復讐だからです。それは誰にも躓きを与えないようにし各々が自分のものを守るためで」。


[1] 完了不定詞。
[2] 直訳は「その怒りに場所を与えなさい」。
[3] 1ミリオンは約1,5キロメートル。

2011年2月23日水曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」7月1日~5日

 
71

あなたには他の神々が私の面前にあってはなりません[1]
出エジプト記203節)

すべての知恵は、あたかも泉から湧き出るようにしてめとして流れ出てきます。この戒めこそ真の太陽です。この光の下で知恵ある誰でもはっきりものが見えるようになります。なぜなら、神様を畏れ信じるは知恵に満たされており、全世界の先頭に立ち、すべての言葉や行いの主人となりあらゆる教えと神様の御前受け入れられるとをく者だからです。ところが、第戒をもたず神様を畏れず神様に信頼しないまったく愚か、何をやってもうまくいきません。



7月2日

信仰によって私たちはこの世界が神様の御言葉によって造られたのであり、したがって見えるものは現れているものから生じたのではないことを理解します
ヘブライの信徒への手紙113節)

人は、聖書の「初めに神様は天と地を造られた」という最初の言葉の意味がわかるようになるまでは実は死んでいるのです。そして人は、たとえ千歳まで生きながらえたとしても、それを完全にわかるようにはならないでしょう。モーセのテキストは明瞭であり、真実を示しています、「神様は『光あれ』と言われまし。すると光がありました」つまり御言葉は光より前に存在したのです。光は御言葉を通して存在したからで。それと同様に、御言葉は他のすべての被造物より前に存在しました。それら被造物は、モーセが書いているように、御言葉を通して存在したので



73

サラはキルヤト・アルバすなわちカナンの地ヘブロンで死にました。アブラハムは来て彼女のために嘆き悲しみました
創世記232節)

クリスチャンを信仰と愛以外のものを基準にして評価してはいけません。信仰については、クリスチャンは地上では何の心配もしていません。愛については、すべてがクリスチャンに関わってきます。神様は福音によって人間らしさ私たちから取り去ってしまおう、などとはんではおられません。神様は「人間らしさ」を人の中に大切にし、一新なさいます。父が息子を愛し、妻が夫を愛するのは自然なことでクリスチャンは愛する者が幸せならば共に喜び不幸ならば共に悲しみます



74

私たちは見栄えのする[2]部分[3]を覆う必要がありません。神様は身体を見劣りのする部分に結び付けて、よりいっそう大切に扱っておられます[4]。それは、身体の中に分裂がなく、それぞれの部分が互いに配慮しあうためなので。もしもある部分が苦しめばすべての部分が共に苦しみ、もしもある部分が尊重されればすべての部分が共に喜びます。あなたたちはキリストの身体であり、各々がその部分なので
コリントの信徒への第の手紙122427節)

私たちの肉体の肢体は、クリスチャン自分の行いによって自分のためだけではなく他の人のためにもどのように仕えるべきかについて、その奉仕のわざによって模範を示してくれています。これよりもすぐれたを私たちは見出せません。もしも私たちがこの模範に従って行うならば、私たちの間にいがみ合いや分派が生じることは決してないでしょう



75

5羽の雀が2アサリオンで売られているではありませんか。しかもそれらのうちの1羽たりとも神様の御前で忘れ去られてはいません[5]。その上あなたがたの髪の毛もすべて数えられているのです。恐れてはいけません。あなたがたは沢山の雀よりもかけがえのない[6]存在なの
ルカによる福音書1267節)

心配や悩みをすべてひとつに集めて、まるでそれが燃えさしであるかのように、神様の無限の愛と配慮に満ちた海に沈めてしまいましょう。そしてそれら心配事を些細なこととみなして話し合いましょう


[1] 未完了形。
[2] 別訳は「振る舞いのよい」。
[3] あるいは「肢体」。
[4] 現在分詞。
[5] 受動態完了分詞。
[6] 直訳は「価値のある」あるいは「あってもなくてもよいようなものではない」。