7月11日
(「マタイによる福音書」7章12節)
もしも人々がふさわしからぬことを行っているところに出くわしたなら、それについて他の人に吹聴したりせず、誰もそれを見ないようにドアを閉めなさい。それからしかるべき叱責を行いなさい。しかしそれでとどめておきなさい。なぜかというと、あなたも自分の場合にそうしてもらいたいと思っているでしょうから。
7月12日
あなたの右の頬を打つ者には、もうひとつの頬をも向けてやりなさい。あなたに対して訴訟を起こし下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたを強いて1ミリオン行かせようとする者には、その人と共に2ミリオン行きなさい。(「マタイによる福音書」5章39節後半~41節)
もしも人殺しが森で、あるいは邪悪なならず者が通りで、私に襲いかかろうとして、私がそのとき警察など公的権力に助けを求めることができない場合には、私は彼らが私を傷つけ殺すままにまかせるべきなのでしょうか?いいえ。なぜなら、公的権力は各人に暴力や悪意から自分の命を守る権利を与えているからです。
7月13日
この世での生活に必要なものをもち、自分の兄弟が困窮しているを見ているのに、その人に対して心を閉じるような者に、どうして神様の愛がとどまることがあるでしょうか?
(「ヨハネによる第一の手紙」3章17節)
クリスチャンとして私は、信仰によって自分自身の立場を思い出してこう言うべきです、「私は、キリストが御自分のからだと血とを私の(信仰の)兄弟のためにも与えてくださったことを知っていながら、その兄弟を傷つけたり、困窮から助けず放置するべきでしょうか」。神様の御子を信じて、言葉では表せない永遠の宝を受け取ったクリスチャンの心が、どうしてその隣り人を危機の只中に置き去りにできるでしょうか?
7月14日
それは、他の人たちに楽をさせてあなたたちに苦しい思いをさせるためではなく、均衡が実現するためです。
(「コリントの信徒への第二の手紙」8章13節)
あなたが苦しんでいる人を助けることによって自分が子供もろとも苦しい状況に陥るのは、主なる神様の御心ではありません。パウロがこう言っている通りです、「それは、他の人たちに楽をさせてあなたたちに苦しい思いをさせるためではありません」。
7月15日
あなたたちの中には義務を怠った生活を送り、働きもせずに、いたずらに徘徊している者たちがいるということを、私たちは聞いています。私たちは彼らに対して、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧めます。
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章11~12節)
あなたは、怠けたりお金を無駄遣いしたわけでもないのにお金が無くて困っている人たちを助ける義務があります。多くの人は自分で生活費を稼ぎたいと望んでいますが、かないません。一方では、自分で十分に生活費をまかなえるのに、収入以上の贅沢な生活をしている者もいます。そのような者たちを助けてはいけません。もし助ければ、彼らが不正にお金を集めることに手を貸すことになるからです。