6月16日
私の兄弟たちよ、このようにあなたたちもキリストのからだを通して律法に対して殺されたのです。それは、あなたたちが別の方、すなわち、死人の中から甦られた方のものとなり、こうして私たちが神様のために実を結ぶためなのです。
(「ローマの信徒への手紙」7章4節)
このように信仰者は苦難から解放され、その花婿であるキリストの永遠の義を着させていただいているのです。なんと救いの幸せに満ちた結びつきでしょうか!富裕で高貴な聖なる花婿が、貧しく欠点だらけで皆に蔑まれる花嫁を妻として迎え、彼女をすべての悪から解放し、最上の祝福によって祝福してくださるのです。
6月17日
すなわち、私は「内なる人」としては神様の律法を喜んでいますが、私の肢体には別の律法があって、私の理性の律法に対して戦いを挑み[1]、私の肢体に存在する罪の律法のなかに私を虜にしている[2]のを見ています。
(「ローマの信徒への手紙」7章22~23節)
パウロや聖人たちを罪のない者と見なそうとしている人々は、あまり考えずに御心に反することをしています。彼らは信仰の教えについて無知であるがゆえにこのような主張をするのですが、こうすることで彼らは教会からその最大の慰めを奪い去り、罪の赦しについての教えやキリストを無意味なものにしてしまうからです。
6月18日
あなたたちは罪に支配されることはないでしょう。なぜなら、あなたたちは律法の下にはなく恵みの下にあるからです。
(「ローマの信徒への手紙」6章14節)
「律法の下から自由になっている」ということは、好きなときに好きなだけどんな悪いことでも行う自由があるとか、よきわざを怠ってよいとかいう意味ではありません。その本当の意味は、恐れや強制や律法の要求のゆえではなく、自由な愛の心から喜んで、よい行いをして悪を避けるということなのです。しかも、あたかも律法が存在しないかのように、それは自然に行われるのです。
6月19日
私たちの救い主である神様の善性と人間愛が現れたとき、私たちが行なった
義におけるわざによってではなく、御自身の憐れみにより、神様は私たちを再生の洗いと聖霊様による一新を通して救ってくださいました。
(「テトスへの手紙」3章4~5節)
使徒はこの「洗い」を「再び生まれること」と呼び、また「聖霊様によって新しくされること」と呼んでいます。それは、恵みの大きさと力が私たちにはっきり示されるためです。この洗いは非常に偉大なわざなので、それを行えるのは被造物ではなく、ただ聖霊様のみです。
6月20日
あなたたちは皆、イエス・キリストにおける信仰を通して神様の子供です。なぜなら、キリストへと洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを着たからです。
(「ガラテアの信徒への手紙」3章26~27節)
福音にふさわしいかたちでキリストを上に着ることは、律法や行いを着込むことではなくて、想像もできないほど大きな賜物、すなわち、罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊様における喜び、救い、命、さらにはキリスト御自身をも着ることです。「洗礼はキリストを着ることであり、たんなる外的なしるしではない」、とパウロは教えています。キリスト御自身が私たちの服です。それゆえ、洗礼は本当に力があり、すばらしいことなのです。