6月26日
そのときイエス様は、聖書がわかるようになるように彼らの思いを開いて、彼らに言われました、「こう書いてあります、『キリストは苦しみを受け、三日目に死者たちの中から復活します。そしてその名によって罪の赦しのための悔い改め[1]がすべての国民に宣べ伝えられます。そしてこれらはエルサレムから始まるのです』。」。
(「ルカによる福音書」24章45~47節)
キリストは教会に「罪を赦す賜物」をお与えになり、「罪の赦しの王国」を築かれました。罪人が指導や叱責を受け入れる場合には、その人は罪の赦しを乞い求める度毎に罪から解放されます。そしてこれは教会の本質をよくあらわしています。なぜなら、罪の赦しは教会に委ねられているからです。
6月27日
天が地より高いように、主の恵みは主を畏れる人々に強い力を与えてくれます。
(「詩篇」103篇11節)
恵みは力に満ちており、私たちの中にあるあらゆる罪や怒りや悪よりも強い王国を形成しています。知の崇拝者や偽善者はいまだかつてこの御言葉を理解したことがありません。彼らの心の状態は私が知を崇拝していたときの状態と同じだろうと思います。彼らは恵みにあずかっていますが、罪を行えば恵みも失ってしまい、それを再び自分の行いによって獲得しなければならないのです。しかしこれでは、行いの上方にある恵みの王国ではなく、恵みの上方にある行いの王国になってしまいます。
6月28日
神の御子を信じている者[2]はこの証を自分の中にもっています。神様を信じていない者は、神様をうそつきと見なしてしまっています[3]。なぜなら、その人は神様が御自分の御子について証してくださった[4]その証を信じなかったからです[5]。
(「ヨハネによる第一の手紙」5章10~11節)
人は自分が恵みに与っている状態にいるかどうか知る必要がない、などという考えを抜き去るように、全力を尽くしましょう。それはこの世で人を最も害する虚妄です。私たちを疑いへと落とし込む説教者たちは、あらゆる点で失格です。私たちは、自分たちには神様がおられ、罪の赦しと永遠の命が神様の御国にある、と確信しなければならないからです。
6月29日
誰が私たちの神様、主と比肩しえるでしょうか。主は高きところにお座りになり、天と地とを見下ろされています。
(「詩篇」113篇5~6節)
神様は、すべてにまして高くあられ、御自分よりも高いものは何もないので、御自分の上方にも傍らにも何も見るべきものがありません。神様のような方は他には存在しないので、神様はただ御自分と下方のみを見ることができます。そして何かが御自分の下方に深く落ち込んでいればいるほど、それだけよく神様はそれをごらんになるのです。
6月30日
すべてお父様がおもちになっているものは、私のものです。
(「ヨハネによる福音書」16章15節より)
イエス様は「お父様はこれこれしかもっていない」とか「すべてはお父様のものであり、私には何もない」とは言われず、「すべてはお父様のものでです。しかしお父様のものは私のものでもあります」と言われています。このようにしてイエス様は、御父と御子が同じ神様であることをはっきりとお示しになっています。そして「すべて」御父と御子のものは、聖霊様のものでもあります。「この方(聖霊様)は私のものを受けて、それをあなたたちに知らせます」(今日の御言葉の続きの箇所)と主が言われているとおりです。この「私のもの」とは何でしょうか。疑いもなくそれは、御父のものでもあります。御霊は御父と御子からあらゆる点で完全な神性を受けているのです。