6月6日
(「マタイによる福音書」11章2~3節)
あたかもヨハネは弟子たちにこう言っているかのようです、「どのようなわざをイエス様が行われたのか、あなたたちは聞いています。イエス様以前に、私も他の誰もそれと同じようなことを決して行ったりはしませんでした。あなたたちは行って、イエス様が来るべき方であるかどうか、イエス様御自身からおたずねしなさい。来るべき方は駿馬に乗り鎧に包まれてやって来る、などというこの世的な間違った想像はもう捨て去りなさい。今や、イエス様は大きく私は小さくなっていくべき時です。私の使命は終わりかけています。そして、イエス様の使命は始まろうとしています。あなたたちは私を捨てて、これからはイエス様に忠実に従っていかなければなりません」。
6月7日
語る者は神様の御言葉によって語りなさい。
(「ペテロの第一の手紙」4章11節より)
上手に語る賜物があまりない者が、美しく語る達人と比べて、神様の与えてくださった御言葉を「より下手に」語るということはありません。あなたの(この世の)父も、天使ガブリエルと同じように語ります。いろいろな器がある、というちがいがあるだけなのです。ある人は銀の器であり、またある人は錫や粘土の器です。しかし、器はこの世的なものです。同じ食事を同じように錫の器にも銀の器にも盛ることができます。そして、周到にこしらえられた食事は、錫の器で食べても銀の器で食べても、同じように美味しくいただけます。
6月8日
イエス様は答えました、「まことにまことに私はあなたに言います。もしも水と御霊から生まれなければ、人は神様の御国に入ることはできません」。
(「ヨハネによる福音書」3章5節)
ここで「水」と呼ばれている洗礼には貴い力が込められています。それについてキリストがこの御言葉に基づき如何に明瞭に教えておられるか、注目しなさい。洗礼には聖霊様が臨在なさっています。そして洗礼を通して人は新しく生まれます。こうして、信仰と洗礼に反対するあらゆる異端的な教えと誤謬は滅ぼされます。異端としては、まず第一に、自分自身の行いによる義と救いを追求している「ローマ法王派」やその同類がいます。(・・・)第二に、御言葉やしるし(聖礼典のこと)を通さずに、その外側から、特別な啓示や影響力によって天国から直接やってくるような「霊」を求めるように促す「再洗礼派」やその同類の主張がここでは粉砕されています。彼らは洗礼を、あたかもそれが無益なただの水であるかのように、軽んじているのです。
6月9日
イエス様は答えました、「まことにまことに私はあなたに言います。もしも水と御霊から生まれなければ、人は神様の御国に入ることはできません」。
(「ヨハネによる福音書」3章5節)
キリストが望んでおられるのは、幼い子供たちが洗礼を授けられずにその外側に見捨てられることでは決してなく、彼らもまたこの御言葉にかかわりをもつ者として扱われることです。子供たちにも洗礼を授けなさい。神様は、子供たちをも新しく生んで、子供たちの中で働きたいと望まれています。もしも子供たちをキリストの御許に連れて行くつもりならば、キリストが働かれるときに用いられる手段やしるし[2]を、子供たちから奪ってはなりません。私はここで洗礼を受けるのが可能なときにちゃんと守るべき一般的な秩序と規則について言っているのです。洗礼を受けるのが不可能であるような非常事態においては、洗礼を受けたいという意志と、御言葉とによって、その人をキリストにささげるために御許へと連れて行くことで十分でしょう。
6月10日
なぜなら、私たちの過ぎ越しの羊であるキリストがほふられているからです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」5章7節より)
「私たちの過ぎ越しの羊であるキリストがほふられている」という聖パウロの御言葉はどういう意味でしょうか。それについて私たちは受難の歴史から聞いて知っています。ここでは二つのことに注目するべきです。まず第一に、私たちは、罪に対する神様の猛烈な怒りを思い起こさなければりません。この怒りを和解によって鎮めることができるのは、唯一の犠牲、神様の御子の死と血のみです。私たちは皆、自分自身の罪によってこの怒りの原因となっており、神様の御子が犠牲となられ、十字架でその血を流すほかないような事態を招きました。第二に、私たちは、私たちに対する神様の恵みと愛を見てそれを覚えなければなりません。それは、私たちが神様の怒りから解放されるためになぜ神様はその独り子を惜しまれずに十字架の死に渡されたのかについて、自分の罪のひどさを知った私たちがよく考えてみるためなのです。これより大きな愛のわざがありうるでしょうか。