6月21日
私の名を畏れているあなたたちには、義の太陽が昇り、その翼の下には癒しがあります。
(「マラキ書」3章20節より)
御言葉と洗礼と聖餐は、私たちの「明けの明星」です。それらを私たちは「恵みの太陽」の特別なしるしであるかのように見つめます。なぜなら、私たちは確信をもって次のように言えるからです、「御言葉とサクラメント(洗礼と聖餐)があるところには常にキリストがおられ、また罪の赦しと永遠の命があります。逆に、これらの恵みのしるしがないかあるいは拒絶されるところでは、恵みはまったくなく、ただひどい迷妄があるだけです」。
6月22日
あなたたちの中で試練を耐え抜く人々が明らかになるために、あなたたちの中に分派があるのはやむをえません。
(「コリントの信徒への第一の手紙」11章19節)
なぜ主は偽預言者たちを義なる人々や真の説教者たちの只中から起こされるのでしょうか。主は、福音を清く力強いものとして保つことができるほど力強くはないのでしょうか?主はもちろんおできになります。しかし、主がそうなさらないのは、御自分の民を試練にあわせて強くするためであり、感謝の心のない者たちを罰するためです。
6月23日
そのときイエス様は答えて言われました、「天と地の主なるお父様、私はあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを知恵のある者たちや賢い者たちからお隠しになって、幼い者たちにあらわしてくださいました。そうです、お父様、このようにしてあなたの御心が御前に実現するためでした」。
(「マタイによる福音書」11章25~26節)
神様はこう言われます、「私は福音を明瞭な言葉で書かせ宣べ伝えさせたいと望んでいます。しかしすべてはどのように聖霊が光を与えるかによって決まります。聖霊が光を与えるのは、私の言葉を真面目に受け入れる単純なひとにぎりの人たちだけに対してです。他の者たちに対しては、あのエジプト人たちに対してのように、聖霊の光は深い暗闇に包まれたままです。どれほど明瞭に私の言葉が宣べ伝えられ説教されたとしても、それは彼らにとってはただ侮辱と堕落を招くことになります。彼らは私の言葉に躓き、それを嘲って反抗し、ついには滅んでいくのです」。
6月24日
主なるイスラエルの神様がほめたたえられますように。神様は御自分の民を顧みて贖ってくださり、そして私たちのために救いの角(つの)を御自分の僕ダビデの家に起こされました。
(「ルカによる福音書」1章68~69節)
この王国は私たちの命や行いには左右されず、救い主キリストとその福音とに依拠しています。あなたたちも聞いたことがあるかとは思いますが、それは恵みと命と義と救いと憐れみの王国であり、その国民は誰であれ、どんなに消え入りそうなほど弱くても、ヨハネほど聖くなくキリストほど完全でなくても、健康と救いにあずかれるのです。
6月25日
(「ヨハネによる第一の手紙」2章7節)
クリスチャンは、罪の誘惑を相変わらず感じているがゆえに心のなかで苦しみつつ自分の罪を告白する罪人です。罪を知らない者はクリスチャンではありません。もしもあなたがそのような者に出会うなら、あなたは反キリストに出会うのであって、クリスチャンに出会うのではありません。