6月11日
イエス様は言われました、「お父さん、彼らの罪を赦してください。彼らは自分で何をしているかわからないのです」。
(「ルカによる福音書」23章34節より)
イエス様の傍らに十字架につけられた強盗は、イエス様の祈りがどのような実を結んだかを示しています。この祈りは強盗が聞いた福音であり説教でした。そこから強盗は、「主キリストは神様の御子であり、この世全体のあらゆる罪を肩代わりするために、肉体の死の後に父なる神様と共に永遠に生きて支配なさるために、今十字架につけられた」、ということを学んだのです。
6月12日
(「マタイによる福音書」12章18節より)
もしも人が、私たちに仕えてくださるキリストは神様の御心に適っている、と心からわかるならば、その人は喜びのあまり気絶してしまうでしょう。このことをあなたは信じますか。そうすれば、今もこれからも変わることなく私たちへと向けられている神様の父親らしい善と愛を、心は見ることができるのです。
6月13日
私たちが神様を愛したのではなくて、神様御自身が私たちを愛してくださり、私たちの罪についての贖いのささげものとしてその御子を遣わしてくださいました。まさしくここに「愛」があります。
(「ヨハネの第1の手紙」4章10節)
もしも神様が私たちを愛してくださったのでなければ、私たちは神様を愛することができないでしょう。なぜなら、神様は人に対して憐れみ深く人を愛してくださることを信じている人しか神様を愛することはできないし、「神様は私たちを地獄へと裁こうとしている」と思い込み、神様を避けて憎むようになるからです。
6月14日
(「マタイによる福音書」12章18~19節より)
神様はこれを「裁き」と名づけておられます。なぜなら福音は、私たち自身のあらゆる義を斥け、罪を拭い去って永遠の裁きを無効にした「キリストの義」だけを賛美し、また差し出すからです。貧しく罪のなかに死んでおり、地獄で滅ぶという裁きの下にある人間が、尊く優しいこのキリストについての御言葉以上に慰めに満ちた言葉を聞くことはありえません。もしも人がそれを本気で信じるなら、その心は喜びに溢れます。
6月15日
主の僕モーセが死んだ後、主はモーセの従者ヌンの子ヨシュアに言われました、「私の僕モーセは死にました。今、あなたとこのすべての民とは立って、このヨルダン川を渡り、私が彼らイスラエルの人々に与える[4]地に行きなさい」。
(「ヨシュア記」1章1~2節)
律法があるところでは、良心はいまだに罪のなかにあります。しかし、律法がないところには義のみがあり、モーセは完全に消え去って彼の墓の場所もわからなくなっているほどです。もしもモーセがいないのなら、罪もいなくなっています。そして死は優しい夢に変わっています。