2011年2月15日火曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」6月11日~15日

   
  
611

イエス様は言われまし「お父さん、彼らの罪を赦してください。彼らは自分で何をしているかわからないのです」
ルカによる福音書2334節より)

イエス様の傍らに十字架につけられた強盗は、イエス様の祈りがどのような実を結んだかを示しています。この祈りは強盗が聞いた福音であり説教でた。そこから強盗は、「主キリスト神様の御子であり、この世全体のあらゆる罪を肩代わりするために、肉体の死のに父なる神様と共に永遠に生きて支配なさるために、今十字架につけられた」、ということを学んだので



612

見よ、私の愛する僕を、私の心[1]に適う愛する者を。
マタイによる福音書1218節より)

もしも人が私たちに仕えてくださるキリスト神様の御心に適っていると心からわかるならば、その人は喜びのあまり気絶してしまうでしょう。このことをあなたは信じますか。そうすれば、今もこれからも変わることなく私たちへと向けられている神様の父親らしい善と愛を、見ることができるのです



613

私たちが神様を愛したのではなくて、神様御自身が私たちを愛してくださり、私たちの罪についての贖いのささげものとしてその御子を遣わしてくださいましまさしくここに「愛」があります
ヨハネの第1の手紙410節)

もしも神様が私たちを愛してくださったのでなければ、私たちは神様を愛することができないでしょう。なぜなら、神様に対して憐れみ深く人を愛してくださることを信じてい人しか神様を愛することはできないし神様は私たちを地獄へと裁こうとしていると思い込、神様を避け憎むようになるからです。



614

私は自分の御霊を彼[2]の上にのせるでしょう。そして彼は裁き[3]を諸々の民に宣べ伝えるでしょう。彼は争わず、叫ばず、その声を大路で聞くはいないでしょう。
マタイによる福音書121819節より)

神様はこれを「裁き」と名づけておられます。なぜなら福音は、私たち自身のあらゆる義を斥け、罪を拭い去って永遠の裁きを無効にキリストの義」だけを賛美し、また差し出すからで。貧しく罪のなかに死んでおり、地獄で滅という裁きの下にある人間、尊く優しいこのキリストについての御言葉以上に慰めに満ちた言葉を聞くことはありえません。もしも人がそれを本気で信じるなら、その心は喜びに溢れます



615

主の僕モーセが死んだ後、主はモーセの従者ヌンの子ヨシュアに言われまし「私の僕モーセは死にました。今、あなたとこのすべての民とは立って、このヨルダン川を渡り、私が彼らイスラエルの人々に与える[4]地に行きなさい」
ヨシュア記112節)

律法があるところ良心はまだ罪のなかにあります。しかし、律法がないところには義のみがあり、モーセは完全に消え去って彼の墓の場所もわからなくなっているほどで。もしもモーセがいないのなら、罪もいなくなっています。そして死は優しい夢に変わっています


[1] 直訳は「魂」あるいは「思い」。
[2] イエス・キリストのことをさす。
[3] あるいは「正義」。
[4] 完了形。預言的用法。