6月1日
救いの兜を被り、御霊の剣すなわち神様の御言葉を取りなさい。すべての祈りと願いを通してあらゆる時に御霊にあって祈りなさい[1]。そのために、あらゆる忍耐をもってすべての聖徒のために祈り、目を覚ましていなさい[2]。
(「エフェソの信徒への手紙」6章17~18節)
教会を維持しているのは、忠実な教え、熱心な祈り、真の苦難です。この世は「平和の王国」を、表面的には平和にみえる雰囲気の中でことが円滑に運ばれうまくいくところに見出します。ところが、「恵みと救いの王国」は、上の聖書の箇所に挙げた教会を教会たらしめる「しるし」に基づいて見出されるものです。たとえ教会が表面的には世の「平和の王国」とは正反対に見えることがしばしばあるとしても、そうなのです。
6月2日
イエス様が彼らのもとに来て彼らにこのように話されました、「私には天においてもまた地上においてもすべての支配権が与えられました。それゆえ、あなたたちは巡り歩いて[3]、すべての国民を弟子にしなさい[4]。父と子と聖霊の御名によって彼らに洗礼を授けなさい[5]。あなたたちに命じておいたすべてのことをまもるように彼らに教えなさい[6]。見よ、私は世の終わりまで、すべての日々、あなたたちと共にいるのです」。
(「マタイによる福音書」28章18~20節)
私たちには教会を維持する能力がありません。私たちの先祖にも子孫にも、その力がなかったしこれからもありません。しかし今も昔もこれからもその力があるお方がひとりおられます。それは、「私は世の終わりまで、日々常に、あなたたちと共にいる」、と言われているお方です。
6月3日
(「創世記」18章26節)
御自分のものである「教会」のゆえに神様は御自分をないがしろにしている人々をも祝福なさる、ということによく注目するべきです。もしも仮にこの世に教会や福音の説教がなかったならば、この世はもうとっくの昔に滅んでしまっているはずです。私たちの時代にも、神様は私たちと共にいてくださいます。なぜなら、私たちには御言葉とサクラメント(洗礼と聖餐)があるからです。神様は私たちを通して話され働きかけられ、多くの者を死や滅びから解放してくださいます。
6月4日
天国は畑に隠してある宝のようなものです。人は、それを見つけるといったんは隠しておいて喜びながら出かけて行き、持ち物全部を売り払いって、その畑を買います。
(「マタイのよる福音書」13章44節)
このようなものがつまり天国です。何人かの人は天国をもっているように見えますが実はそうではなく、他の人たちは天国を持っているようには見えませんが、実はもっています。表面的には立派に見える偽善者たちは教会を形成したいと思っていますが、できません。彼らは教会の宝、キリストを知らないからです。ところが、義なる人たちは、たとえ彼らが教会を形成しているようには見えなくても、キリストを知っています。彼らはこの世においてはまったく目立たない隠れた存在でありつづけるからです。
6月5日
(「コロサイの信徒への手紙」3章16節)
パウロはここで、教えるという職務にすべてのクリスチャンはかかわりをもっていることを示しています。彼がこう言っているとおりです、「互いに教え合いまた訓戒し合いなさい、すなわち、公の説教職以外の交わりのなかでも、互いに訓戒し合い、また自分自身を戒めなさい。それは、神様の御言葉があらゆるところで、公的にも私的にも、一般的にも個人的にも、活用されていくようになるためです。