7月6日
神様は今日は生えていても明日は炉に投げ入れられる野の草でさえこのように装ってくださるのですから、あなたたちをより大切に装ってくださらないわけがありません。信仰の弱い者たちよ。
(「マタイによる福音書」6章30節)
もしも仮に神様の特別な秩序とお造りになった世界とが今のようなものではなかったとすれば、いろいろな花も、色や葉や花びらなどの点で今の私たちの世界の花ほどは互いに似てはいなくて、もっとでたらめになっていたことでしょう。もしも神様が、私たちが刈り取ったり動物がそれを食べたりするためだけに生えている草さえも世話してくださっているのですから、神様は私たちを装ってくださるかどうか疑い続けるのは、罪深く恥ずべきことではないでしょうか。
7月7日
(「テモテへの第一の手紙」6章17節)
もしも主があなたにこの世のよいものを豊かに与えてくださるならば、それを主の栄光のために用いて、主の善性を喜びなさい。ただし、花婿から高価な指輪を受け取った花嫁のように喜びなさい。花嫁は、指輪が高価であることを喜ぶのではなく、彼女がそれを花婿の栄光のために身に着けるようにと花婿がそれを与えてくれたことを喜ぶのです。神様はあなたを御自分の善性によって祝福なさいました。その神様の善性のおかげで、あなたの心がやわらかくなり、神様を感謝するようになりますように。
7月8日
(「ローマの信徒への手紙」12章19節)
この神様の怒りと復讐は様々なかたちで実現します。あるときには公的権力を通して、またあるときには悪魔や病気や飢饉や疫病や火事や水害や戦争や敵意や侮辱やあらゆる事故や不幸を通して、それはやってきます。なぜなら、神様は罰するときにあらゆる被造物を御自分の鞭や武器として用いられるからです。
7月9日
どうか今あなたが彼らの罪を赦されますように。しかし、もしもそれが適わないのなら、あなたが書き記されたあなたの書物から私を消し去ってください。
(「出エジプト記」32章32節)
民が救われるためには自分が悪魔の支配に落とされ身体や魂が裁かれることさえ辞さない人間(モーセ)は、優しく好ましく親切な者ではないでしょうか?しかし、問題が公的権力の職務に関わる場合には、(神様から)支配を委ねられた者としてモーセは神様の怒りを鎮めるために23000人を殺したのです。
7月10日
あなたの右の頬を打つ者には、もうひとつの頬をも向けてやりなさい。あなたに対して訴訟を起こし下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたを強いて1ミリオン[3]行かせようとする者には、その人と共に2ミリオン行きなさい。(「マタイによる福音書」5章39後半~41節)
これは、あなたは自分で復讐するのをこらえて苦しみを甘受し、天の裁き主を待ち望まなければならない、という意味です。神様は、この世の公的権力がともすると陥りやすい寝惚けた不真面目な態度で職務を遂行したりはなさいません。しかしここでキリストは、あなたがひどい扱いを受けたときにあなたに沈黙を命じてはおらず、公的権力に苦情を伝えることを禁じてもいません。
あなたはこう訊くかもしれません、「私にひどいことをした者に対して私が訴訟を起こすのは、私が復讐を要求していることになるのではないでしょうか」。答え、「そのとおり。法律と秩序に基づいて、あなたの隣り人に対して怒りをもたずに行うとき、あなたは正しく行っています。なぜなら、それはあなた自身の復讐ではなく、神様が定められた神様の復讐だからです。それは、誰にも躓きを与えないようにし、各々が自分のものを守るためです」。