2014年3月31日月曜日

「ルターの祈りの本」 使徒信条(その3)


我は、その独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、
ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、
陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に坐し給えり、
かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を審き給わん。(その1)
  
 

ここでまた、あなたの大きな光が輝いています。
あなたの創造の御業の後、アダムの罪の出来事を通して、
私たちは死の中に落ち込むことになり、
不幸の中で絶えずさいなまれることになりました。
ところが、あなたの光は、御子キリストを通して、
これほどまでに惨めな私たちがどのようにして死から解放されたのか、
私たちに教えてくださいます。

父なる神様についての信条によって、
私は、自分もまた、
神様がお造りになったもののうちの一つであることを、
認めなければなりません。
ですから、
私は、自分もまた、
神様が贖ってくださった者たち
(つまり、私たちのために流されたイエス様の尊い血によって、
罪の呪いから解放された者たち)
の一人として確かに数えられていることを、疑ってはなりません。

そして、他の一連の言葉の前に、
「私たちの」という一言を付け加えて、
「私たちの主、イエス・キリストは、
私たちのために苦しみを受け、私たちのために死に、
私たちのために復活なさいました(等々)」、
と言うべきです。

これらすべては、私たちのためなのであり、
私たちにかかわりがあることです。
御言葉が教えているとおり、
私もまた、
「私たちのための」と呼ばれる会衆の一員なのです。

2014年3月28日金曜日

「ルターの祈りの本」 使徒信条(その2)


我は、天地の創り主、全能の父なる神を信ず。(その2)


第二に、私は、あなたに心から感謝します。
あなたは、その善き性質に基づいて、
私たちを空虚からお造りになりました。
私たちは、身体と魂、理性、五感を有するちゃんとした被造物として、
毎日生命を保たれています。
あなたは、私たちが、地、魚、鳥、動物などを支配するようになさり、
さらには、
愛する御子において、すべてを私たちの手にゆだねてくださいました。

第三に、私は、自分の不誠実さと感謝に欠けた心とを告白し、嘆きます。
私は上に述べたことを心から受け入れてはいませんでした。
それを信じず、考えず、理解もしなかったのです。
つまり、私は理性に欠けた野卑な者だったのです。


第四に、私は、正しく強い信仰をあなたからいただけるように祈ります。
私の愛する神様、あなたは、
私を今もなお休むことなく維持して、
すべて生活に必要なものを用意して、
あらゆる悪を私のもとから追い払い、
私にありとあらゆるよいことをしてくださっています。
これからは、私が、
あなたを私自身の造り主としてそのまま素直に受け入れ、
あなただけを堅く信じていけますように。
すべての貧しく惨めな者の父なる神様、
私たち皆にあなたの恵みをお与えください。
そして、私たちを真理によって照らしてください。
あなたに賛美と栄光と感謝が永遠にありますように。
アーメン。

2014年3月26日水曜日

「ルターの祈りの本」 使徒信条(その1)


時間とやる気のある人なら、
信仰告白(使徒信条)についても、
今までと同じように、
四層に分けられ結び合わされたささやかな祈りの冠を編んでみたい、
と思うかもしれません。
信仰告白(使徒信条)は、教理問答書では、
神様の三つのペルソナ(位格)に対応して、
三つの部分に分けられています。


我は、天地の創り主、全能の父なる神を信ず。(その1)


永遠なる神様、あなたは私にここで、
私が何であり、どこから来たのか、天地がどこからできたのか、
教えてくださっています。
私は、あなたの御手によって造られた被造物であり、
自分では何もできない、ちっぽけな存在です。
千年前に、私はどこにいたのでしょう。
天と地は、6千年前にはどこにあったのでしょう。
それらは空虚でした。
そして、それは、自らは何も創造しえない空虚そのものでした。
しかし、私という存在や、私が知りうることはすべて、
あなたがお造りになったものです。
私が誇らしく思うことと言えば、
あなたが、取るに足らない私という存在を造ってくださったことと、
いつでも一瞬にして私を消し去ることもおできになるということだけです。

2014年3月24日月曜日

「ルターの祈りの本」 十戒(その25)

   
十戒について祈ること
 
 
今まで、十戒についての祈りを紹介してきました。
それぞれの祈りを、
教科書や、賛美歌集や、
堅信キャンプの手引書や、祈りの本などでの
説明のやり方と同じようにして、
四つの層に分けて説明してきました。

これらの説明が皆さんの心に触れて、
熱心に祈る力が与えられることを希望します。


ただし、
すべてについて、あるいは、あまりにも多くのことについて、
いっぺんに祈ろうとして、
疲れてしまわないように気をつけてください。

深い祈りは、
冗長なものだったり、
むやみに引き伸ばされたものであったりしてはいけません。
深い祈りは、
心燃えて新たな気持ちで祈りにとりかかる、
ということが頻繁に繰り返されるものでなければなりません。

ひとつの祈りか、あるいはその半分の祈りでも、
もしも本気で祈るならば、
心の中に火花を点火するには十分なのです。
しかし、これは御霊による働き以外の何ものでもありません。

御霊は、
まず心を御言葉によってきれいにして、
御霊とは関わりのない他の活動や思いから解放し、
御自分の働きを心に教えてくださるのです。