2012年10月31日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 悪魔に立ち向かいなさい!(ヤコブの手紙4章7節)(その3)


 
悪魔に立ち向かいなさい!(「ヤコブの手紙」47節)(その3)

 
 
悪魔は次のような考えを吹き込むことによって
私の祈りを邪魔しようとしたものです。
「なぜお前は祈ろうとするのか。
お前は自分が誰で神が誰だか知らないのか。」
しかし、私は神様の恵みによって力づけられ、
悪魔が私に対して争ってくるときに、
もはや悪魔から身を避けたりはしなくなりました。
それどころか、
聖霊様のお助けによって
悪魔をその自分の剣によって追い出しました。
私はそのときこう言ったのです、
「悪魔よ、お前は「私が罪人だ」ということを理由に挙げて、
私から祈る勇気を奪おうとしている。
しかし、私が祈らなければならない理由は、
まさしく私がひどい罪人で、
神様の恵みと憐れみとを心から必要としている、
ということにあるのだ」。
  
自分を捨てて、「神様の右手」にしっかりとつかまっていなさい。
そうすれば、魂の敵はひどい誤算に陥ります。
つまり、悪魔が脱穀にかけようとした麦は実はからっぽだった、
ということになります。
こうなる理由は私が次のように言えるからです、
「私は自分の中に何も望まない。私の力は完全に主の中にある」。
このような態度をとるときに、私は
自分自身から、また私に属するあらゆるものから
完全にきれいにされています。
そして私はこう言えます、
「何をあくせくやっているのだ、悪魔よ。
お前は私の中にどんなよきわざがあるかを探っているのか。
そして私の聖さについて神様の御前で私を責めようというのか。
私にはよきわざも聖さもありはしない。
私にあるのは主の力だ。
それに対しては好きなだけ戦いを挑むがよかろう。
私は自分自身の中には罪も聖さも知らない」。
しかし、
もしもあなたがこのような防御のやり方をやめてしまう場合には、
悪魔は罪やよきわざを拠点にしてあなたをつかまえてしまいます。
もしもあなたが悪魔に屈従しその言うことを聞くならば、
悪魔はあなたにやりたい放題のことをします。
そのときあなたは神様を忘れ、見失ってしまいます。
そして「神様の右手」も他のあらゆることもなくしてしまうのです。
 

2012年10月29日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 悪魔に立ち向かいなさい!(ヤコブの手紙4章7節)(その2)


 
悪魔に立ち向かいなさい!(「ヤコブの手紙」47節)(その2)

 
 
神様は、
質がよいとは言えない弱い「器」である
私たちクリスチャンを対置することで、
この傲慢で強大な「魂の敵」を侮蔑したいと思っておられます。
この器は、悪魔とくらべれば、嵐に対抗する火の粉のような存在です。
本来なら、嵐は火の粉をひと吹きで消すことができるはずです。
しかし主は、そのような弱い器を通して、
この尊大な敵に勝利し支配することを示されたいのです。
  
悪魔は自分に対して、
神様が「惨めな手段」(私たちクリスチャン)を対置することに苛立ち、
私たちを陶器のようにいっぺんに粉々に砕こうと、
一番恐ろしいやり方で私たちに襲いかかってきます。
ですから、そのような攻撃に対して、
神様の力によって自らを武装しましょう。
戦いは主のものであることをわきまえつつ。
  
次のようにして、悪魔は私たちに襲いかかってきます。
悪魔は自分の毒を元に「おいしい食事と薬」とを作り出し、
それとは反対に
健康によいはずの薬を元に「殺すような毒」を作り出します。
悪魔は悔い改めようとはしない者たちを
罪の中でいっそう不用心にし、
偽りの慰めにいっそう頼るように仕向けます。
その一方で悪魔は、
貧しく悲しんでいる心の持ち主たちを、
本来なら彼らの慰めであり喜びであるはずのことがらによって、
逆に心配するように仕向け、おびえさせます。
  
悪魔と言い争うのはやめなさい。
倦むことなく目を主に向けなさい。
  
神様が教会をお建てになると、
その傍らに悪魔はチャペルを建てるものです。

 

2012年10月26日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 悪魔に立ち向かいなさい!(ヤコブの手紙4章7節)(その1)


 
悪魔に立ち向かいなさい!(「ヤコブの手紙」47節)(その1)
   
 
どうしてあなたは
不用心に上機嫌で生きていられるのでしょう。
あなたを個人的に攻撃してくる
「この世の暴君」がいるではありませんか。
しかもこの敵は
全力であなたを倒すために武装しているのです。
  
私たちは普段
あまりにも物事を軽く考えて不用心に生活しています。
あたかも悪魔が弱々しいハエであるか、
あるいはとうの昔に死んでいるかのようです。
あたかも悪魔に対するクリスチャンの戦いが
ほんの些細なことであるかのようです。

悪魔はその手下の小間使いたちと共に
インドやトルコやどこか遠くにいる、
と思ってはなりません。
悪魔はあなたのすぐ近くにいることを知っておきなさい。
悪魔は毎日、
あなたの周りや部屋や、通りなど、
あなたがいるところならどこにでもいるのです。
   
悪魔は、
私たちがキリストを深く理解するのを妨げ、
私たちがキリストよりも誰か他の友達を
頼ったり信じたりするようにさせる専門家です。

確かにキリストは
一本の指や一言の言葉で悪魔に勝ち、
激怒する悪魔を完全に粉砕することができます。
にもかかわらず、キリストは、
私たちをその仕事に用いたい、と思っておられます。
 

2012年10月24日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 試練がやって来ます


  
試練がやって来ます
  
 
人はそれぞれその性質に応じて別の試みを受けます。
落胆や恥辱や不信仰や疑念など、
重苦しい試練によって試みにあう人もいれば、
快楽や怒りや迫害など、
悪質な罪によって試練にさらされる人もいます。
しかし、パウロは
私たちが自分たちの肉的な欲望に抵抗して
霊にあって歩むように要求しています。
  
自分の肉的な欲望を悲しみもせずに、それらに追従して、
倦むことなくそれらを満たそうとする者は、
「キリストのもの」ではありません。
その人は、
たとえどれほど自分を「クリスチャン」という名前で着飾っていても、
実は自分自身を欺いています。
  
サタンが私たちを試みないでいることはありえません。
しかもサタンは私たちの中に適当な足がかりをもっています。
それは私たちの肉と血です。
これらはサタンがたちまちのうちに制圧してしまう強力な機器です。
  
私は今まで多種多様な苦難に直面してきました。
しかも、それらはきわめて困難なものでした。
しかし、聖書のどこかを読むか思い出すかして、
あたかも「聖なる碇」に信頼するように、その御言葉に信頼すると、
たちまち試みは力を失いました。
私にとってそれらの試みは、
御言葉の力によらないではわずかの間でさえ耐えることができず、
まして勝つことなど不可能であるようなものであったにもかかわらず。
  
祈ろうとすると、
「お前の心は悪い欲望で一杯ではないか。
だからお前は祈ることなどできないよ」
というような考えがしばしば浮かぶものです。
このような考えに対しては戦わなければならないし、
とりわけ、
試みが去るのを待ちながら
しばらく祈りをやめてしまったりしてはいけません。
そうではなく、
試みが一番激しいと感じられ、あなたには祈る力がないときこそ、
すぐに自分の部屋に引きこもり、心を込めてまじめに
「主の祈り」や何か祈りたいことを祈りなさい。
そうすれば、間違いなくあなたは、
試みがやみ、悪魔が逃げていくことを経験することでしょう。                                         

2012年10月22日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 絶えず祈りなさい(テサロニケの信徒への第一の手紙5章17節)(その5)



絶えず祈りなさい 
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」517節)(その5)

 
 
ヒエロニュムスは
アガトンというあるクリスチャンの先達について語っています。
このアガトンという人は沈黙することを学ぶため
30年間も口に石をくわえていました。
しかし、彼はどうやって祈ることができたのでしょうか。
彼が心の中で祈っていたことは疑いもありません。
そしてこのような祈りは
神様に喜んで受け入れていただけたことでしょう。
なぜなら、
神様はまさにこのような祈りを探し求めておられるからです。

もしも自分の祈りが聴かれなかったことに自分で気が付いたなら、
あなたは正しく祈ってはいないのです。
何が神様の御名を聖とすることにつながるのか、
何が神様の御国を広げていくことになるのか、
何が神様の御心を実現させていくのか、
私たちが正確に知るのは難しすぎるし、
どのようにして神様があなたに御自分のパンをお与えになるのか、
どのような方法で試練や危機や悲惨から救い出してくださるか、
を正確に知ることもとても難しいからです。
  
私たちが何を祈るべきであるかについては、
言葉で表すことができますが、
いつ、どこで、どのようにして祈りが実現するかについては、
私たちは把握できません。
  
危機がすぐそこまで迫ってきた時には、
「主の祈り」が教えているように祈らなければなりません。
すなわち、
「神様、私を助けてください、
もしもそれによって神様の御名が聖とされ、
神様の御心が実現することになるならば」、
とあなたは祈らなければなりません。
 

2012年10月15日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 絶えず祈りなさい(テサロニケの信徒への第一の手紙5章17節)(その4)


  
絶えず祈りなさい 
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」517節)(その4)

 
 
確固とした熱情的な祈りは、
途絶えることがなく、疲れも知りません。
それは最後の瞬間まで待ち望み続けます。
それは天と地を貫きます。
ですから、
このような祈りが聴かれないままに終わることはありえません。
なぜなら、
私たちがそのように祈ることは、
神様にとって喜ばしいささげものだからです。
  
祈って戦いましょう。
なぜなら、
信仰の言葉と義とされた者の祈りとは、
あらゆるものの中で最高の武器だからです。
靴屋が靴を作るように、
仕立て屋が外套を縫うように、
クリスチャンは祈らなければなりません。
祈りはクリスチャンの職務です。
  
何かよいことが起きる場合には、
それは祈りを通してのみ実現していきます。
そして、
祈りは広大な権力を有する皇帝にたとえられます。
  
人間の生活にかかわる事柄に関して、
私たちはすべてを祈りを通じて行います。
整っていることを私たちは制御します。
欠けていることを私たちは正して直します。
私たちは苦しみに耐えます。
私たちはあらゆる不幸に勝ちます。
私たちはすべてのよいものを保ちます。
祈りによって。
  
暴力や権力に対抗するためには、
祈りに勝る助言はありません。
 

(次回投稿は一週間後になります。翻訳者より)

2012年10月12日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 絶えず祈りなさい(テサロニケの信徒への第一の手紙5章17節)(その3)


  
絶えず祈りなさい 
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」517節)(その3)

 
 
もしも祈りを軽んじる場合には、私たちには何の防御もありません。

祈ることはクリスチャンの手芸です。
祈りの本質と性質は、
思いと心を神様の方へと上げていくことにほかなりません。
この霊的な祈りが絶えず行われますように。
身体を使う仕事を行っている間にも。
  
天の父なる神様は、
私たちがあまりにも頻繁に願い祈り求めるせいで
疲れてしまうような人間ではありません。
あなたが祈れば祈るほど、
神様は、より深く喜んで、あなたの祈りを聴いてくださいます。
神様に、すべてをはっきりと正直に告白しなさい。
小出しにはしないで。
なぜなら、神様も、
ちょっぴりまぶす程度に小出しにしたりはなさらずに、
洪水のように、
あなたの上に注ぎかけてくださるからです。

祈りがいかに強力なものであるか、
祈りがいかに多くのことを達成するか、
ということは、
経験を通してそれを自分で学んだ者でなければ、
誰も信じようとはしないでしょう。
大きな危険にさらされているときに、
祈ることができるのは本当に素晴らしいことです。
真理にあって祈った時には、
私の祈りは十分に聴かれ、
私は願い求めたよりも多くのことを
いただいてきた体験が私には何度もあります。
なるほどたしかに神様は、
すぐには私の祈りを聴いてくださらなかったことがありました。
しかし結局は、
それらの祈りもちゃんと聴かれたのです。

2012年10月10日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 絶えず祈りなさい(テサロニケの信徒への第一の手紙5章17節)(その2)



絶えず祈りなさい 
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章17節)(その2)


神様は
たくさんのことを私たちに与えたいと望まれており、
それが御自分の栄光を輝かせることにもなると思われています。
私たちが神様から多くのよいことを期待して祈るのは、
神様にとって喜ばしいことなのです。
  
愛する兄弟姉妹の皆さん、
心の中で祈ってください。
時々は口でも祈りなさい。
なぜなら、
神様は活きておられ、
祈りは世界を支え保っているからです。
祈りがなければ、
世界はまったく違った様相を呈することでしょう。
  
祈るクリスチャンは皆、
助け手であり癒し手です。
さらに彼らは、
世の支配者であり「神々」でさえあります。
彼らは世界を支え続けている「足」なのです。
世は、このことの報酬として、
彼らに対して、
周りから圧迫され侮蔑された生活、
汚らしい泥の中を歩むことを余儀なくする生活
を強います。
  
「もしも自分が救われており、
熱心に祈ることができるのなら、
私の祈りは神様に聴かれるだろうに」、
とあなたは言うかもしれません。
私は答えます、
「もしも、「自分が救われている」、と感じないかぎり
祈ろうとしないなら、
あなたは決して救われたりはしないでしょう。
なぜなら、
私たちの祈りは自分の救いに基づくべきものではなく、
神様の不変の真理に基づくべきものだからです」。

 

2012年10月8日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 絶えず祈りなさい (テサロニケの信徒への第一の手紙5章17節)(その1)



絶えず祈りなさい 
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」517節)(その1)
  
 
私たちクリスチャンは、
いつも口で祈るわけではないにせよ、
すくなくとも心の中では、
絶えず祈ることを義務付けられています。
なぜなら、
神様の御名が聖とされ、御国が到来し、御心が行われ、
神様が私たちのために地上に
平和とよい天候と健康な体を与えてくださるように、
皆が毎瞬ごとに心から望むべきだからです。
こういったことを絶えず心で望むのが
クリスチャンというものです。
  
神様の御名が聖とされ、御国が到来し、御心が行われ、
神様が私たちのために地上に
平和とよい天候と健康な体を与えてくださることと望むこと、
これが霊的な祈りであり、心からの祈りなのです。
私たちはこうした祈りを本当に必要としています。
というのは、
私たちの周りには、
罪や恥辱に落ち込む危険が待ち受けているので、
悪魔や自分自身の肉的な欲望に対して
一瞬たりとも気を緩ませることができないからです。
  
心の中だけではなくて、口にも出して、祈っていくことが大切です。

祈りによって私たちは戦い、祈りによって私たちは勝ちます。

主なる神様は、
御自分に乞い求める者たちが激しいほど熱心であることを、
喜んで見ておられます。
それゆえ、
私たちはこの「乞い求める技術」を学ぶべきです。
それは、
私たちがよく神様に祈るためであり、
神様を避けたり神様に祈ることを躊躇したり止めたりしないためです。

2012年10月5日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 「聖書を読みすぎる」ということはありえません(その4)


 
「聖書を読みすぎる」ということはありえません(その4) 
 
 
神様の真理がどれほど力強いものか、
私たちは見てきましたし、
経験もそれを教えています。
神様の真理は、
あらゆる障害を打ち破って勝利の行進を続けます。
神様の真理である聖書を読めば読むほど、
それは人の心を動かし、満たし、
新たなよい考えを生み出していきます。

神様の御言葉は、
人の心に混乱と反抗を生み出しますが、
にもかかわらず、
それら心の葛藤は、
その人を救いへと導くような「不安」なのです。
  
使徒は御言葉を「剣」と名づけています。
それは、
どのように御言葉を敵に対して用いるべきか、
を示すためです。
説教し、説教を聴き、教えることによって、
御言葉の畑を耕し、
御言葉によって鍛錬されなければなりません。
御言葉をどこかにしまいこんだり、
書物の中にとどめておいたりしてはいけないのです。
さもないと、
ちょうど剣が鞘の中でさび付いてしまうのと同じことになります。
そのような場合、
御言葉はその本来の力を発揮することができず、
敵にダメージを与えることもできません。
  
私たちは
御言葉をつかみ、それを前面に出し、
それによって周りをたえず打ち続けるべきなのです。
それはどういうことかというと、
説教職を通して、また心や口によって訓練し、
御言葉を常に鋭く研ぎ澄まされた状態に保つ、
ということです。

2012年10月3日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 「聖書を読みすぎる」ということはありえません(その3)



「聖書を読みすぎる」ということはありえません(その3)

 
 
聖書の内容は、
キリストの受苦によって確保された
恵みと罪の赦しの約束以外の何ものでもありません。
そして、イエス様を信じる人のみが救われるのです。
  
キリストについて喜んで聴き、話し、考え、書きたい、
という御言葉への気持ちと愛を抱いている人は、
このような心は
私たち人間の中に生まれながら備わっている傾向などではなく、
聖霊様の賜物であることを知っておきなさい。
  
苦しみや嘆きや死の中にいる私たちが
聖書から慰めを受けるとき、
聖書は正しく用いられています。
このことから言えるのは、
苦しみや死について何も知らない人は、
聖書の慰めについても何も知らない、
ということです。
なぜなら、この慰めは、
言葉によってではなく、
経験によって理解されるものだからです。
  
聖書は、人を病気や逆境や死から解放するものではありません。
それとは逆に、
聖書は「聖なる十字架」を宣べ伝えます。
それゆえ、忍耐が必要になります。
しかし、聖書は苦しみの中にいる人を慰め強めてくれます。
それは、
人が忍耐を失わずに、
苦しみの壁を貫いて、勝利を得るようになるためです。
「神様が共にいて、守ってくださっている」、
という慰めの言葉を聴くときに、
人の魂は喜び、勇気付けられ、へりくだり、
苦しみに耐えていくようになります。
  
御言葉は、
静かな人や穏やかに喜ぶ心の持ち主
を生み出していきます。
彼らは、危険に直面しても、
疑ったり苦しみに押しつぶされることがありません。
彼らは、危機の最中にありながらも、
危機に拘泥しません。
彼らは、
自分が「神様のもの」であることや、
自分にはキリストを通して憐れみ深い天の父なる神様がおられること、
を信頼して、自分を慰めます。