2011年12月21日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 エフェソの信徒への手紙6章11節

 
悪魔の策略に対抗して立ちつづけるために、
神様のあらゆる武具で身を固めなさい。
(「エフェソの信徒への手紙」611節)
 
  
福音と聖書をよりいっそう熱心に研究するために、
それを自分の前に置きなさい。
たとえあなたが
それを前からよく知っていたり、しばしば読んできたとしてもです。
悪魔はあなたから
神様の御言葉を学ぶ意欲と研究する時間を与えまいとします。
しかし、それは疑いようもなく
悪魔があなたの心に吹き込んだわなです。
なぜなら、悪魔は、
御言葉を学ぶことがどのような実を結ぶか、
よく知っているからです。
もしも神様の御言葉のそばに留まり、
御言葉と付き合い、
御言葉を自分なりの力で抱きしめるなら、
あなたは、キリストがあなたと共にいて、
心に火をともしてくださることを見ることになるでしょう。
最善のやり方は、
数人で御言葉について話し合い、
御言葉の活きた声を聞くことでしょう。
そうするとき、
あなたがたは大いに強められ、
悪魔は逃げ出すほかなくなります。
そして、あらゆる邪悪な欲望と考えは消え去り、
誰も知らなかったような光と理解力が与えられます。
 
今の私たちの態度のどこがいけないのでしょうか。
それは、
愚かな私たちがこのように尊いもの(御言葉)を部屋の中にしまいこみ、
それを用いようとは考えもしなところです。
悪魔は私たちを騙して、
怠惰という誘惑によって御言葉から引き離そうとします。
そうしなければ、
私たちを御言葉から引き離すことはできないからです。
そういうわけですから、
悪魔の悪質な策略に対して対抗するために
身を整えようではありませんか!
  

2011年12月20日火曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書16章23節

 
安心しなさい。私は世に打ち勝っているのです[1]
(「ヨハネによる福音書」1623節)
  
 
信仰者は、
神様への信仰を通して自分の心を勇気付け、
確実で永続する慰めを得ます。
それにより信仰者は、恐れることなく大胆に
罪や死や悪魔やあらゆる害悪から目をそむけない勇気を得ます。
たとえ悪魔が全力で信仰者に襲いかかり、
恐怖によって徹底的に信仰者をくじこうとしても、
信仰者は襲いくる恐怖の只中にいても、
勇気と信仰をもってこう言います、
「邪悪な悪魔め、
尻尾を巻いてどこかへ消えうせろ。
怒るな。
お前が怒り狂って怖がらせようとしても、
私はそんなことは無視するし、
お前を軽蔑する勇気に満ちているからだ。
なぜなら、
イエス・キリストというお方がおられるからだ。
お前もこの方を知っているか?
私はこの方を信じている。
この方は、
律法を無効にし、罪を裁き、死を取り去り、地獄を滅ぼされた。
キリストは、お前よりもはるかに偉大であり、
またこれからもそうあり続けられる。
なぜなら、
この方がお前を捕縛なさっているので、
もうお前は私やこの方を信じる者に
危害を加えることができなくなっているからだ」。
このような信仰に悪魔が勝つのは不可能です。
ヨハネが言っているように、
私たちの信仰こそが世に打ち勝っている勝利だからです。
「世に打ち勝つ者は誰でしょうか?
それはイエス様が神様の御子であることを信じる者ではありませんか」
(「ヨハネの第一の手紙」545節)。


[1] ギリシア語原文の動詞は完了形。

2011年12月14日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 マタイによる福音書6章9節

 
天にましますわれらの父よ。
(「マタイによる福音書」69節)
   
 
この御言葉を信じて
「われらの父よ」と正しく祈ろうと努めるのがどれほど難しいか、
試練の中であなたは気が付くことでしょう。
それが難しいのは、
この御言葉が確固たる力強い真理ではないためではありません。
私たちがあまりに弱く、御言葉に頼り続けることができないからなのです。
本来なら、私たちはこの御言葉に、
鉄やダイヤモンドのような手と心でしっかりくっついているべきなのです。
残念ながら私は
心から「われらの父よ」と言えないことを経験により知っています。
そして、この御言葉を完全な態度で言える人は地上にはひとりもいません。
それでも私は心からそう言えるように努め、
幼子のようにおしゃぶりを吸いはじめます。
私はこの御言葉を十分には信じることができません。
しかし、それを嘘よばわりして否定したくはありません。
(中略)
私は毎日この「主の祈り」とキリストの説教を
ワンセットにして読めるようになるまで
声に出して読む練習をしています。
どういうやり方であろうと、
つっかえながらのもごもご声であろうと、
何かしらは唱えることができるように、
神様、私を助けてください。
 
 

2011年12月12日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ハバクク書1章11節

 
このように彼ら(カルデア人)は風のようになぎ倒して通過します。
しかし、彼らは自分の力を神とみなす罪を犯しています。
(「ハバクク書」111節)

真理に敵対している連中は、
自分が成功を収め、義なる人々が苦難の中にいるのを見て、
実は神様がキリストや聖なる信仰者全員になさったようにして
義なる人々を彼ら敵対者の手に渡されたこともつゆ知らずに、
神様の子供たちをあざけり、こう言います、
「お前らのキリストは今どこにいる。
奴がお前らを助け出せるかどうか見ものだな」。
しかし、このような悪口は恐るべき結末を生みます。
彼らが自分で蜜を蒔いた場所から、苦いからし種が生えてくるからです。
彼らは神様やその裁きを恐れず、へりくだろうとしません。
それゆえ、神様は
彼らがそのまま自分の勝利と成功に酔いしれて
好き勝手に怒り狂うに任せられます。
そして、彼らがその賢さのせいで逆に愚かになるようにし、
罪にすっかり塗れて凝り固まるようになさいます。
しかし、時が来ると、神様は彼らに対して、
バビロニア人やユダヤ人などに対してと同じ態度をとられます。
「彼は神に頼った。今神が彼を救えばよい」、
とキリストに言い放った人々はどうなったでしょうか。
自分たちの神が勝利をもたらしたと、彼らは考えました。
しかし、その「神」は今どこにいますか。
キリストは今もキリストです。
ところが、彼らの偶像は塵と化し、砂漠の砂のように消えてしまいました。

2011年12月9日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章17節

 
キリストにあって義とされることを求めることにより、
私たち自身も罪人とされてしまうのなら、
キリストは罪の奉仕者だということになるのでしょうか?
とんでもないことです。
(「ガラテアの信徒への手紙」217節)
 
  
パウロが言いたいのは次のことです。
私たちがキリストにあって義とされるのが本当だとしたら、
私たちは律法によって義とされるべき罪人ではありえません。
もしもそれが本当ではなく、逆に、
私たちは律法やその行いによって義とされなければならないとしたら、
私たちがキリストを通して義とされることはありえなくなります。
私たちは、
キリストを通しては義とされないのか、
それとも、
律法を通しては義とされないのか、
そのどちらか一方が間違っているのです。
しかし、
私たちはキリストを通して義とされるのであり、
律法を通してではありません。
これについては証拠を挙げることができます。
もしも人が義とされるために律法を守ることが必要だとしたら、
キリストにおいて義なる人々は実は義ではなく、
ほかにまだ人を義とする律法が必要になります。
すなわち、
もしもキリストを通して義とされた人々が、
さらに律法を通して義とされる必要があるのなら、
キリストは律法の設定者であり罪に仕える者にほかならなくなります。
その場合には、
キリストにあって義とされた人は、実は義とされておらず、
さらに律法の義が必要になります。
しかし、
私たちは本当にキリストにあって義とされているのです。
なぜなら、福音は、
人は律法ではなくキリストを通して義とされる、
と教えているからです。

2011年12月7日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヘブライの信徒への手紙11章1節

  
信仰とは希望している事柄への確信であり、見えない事柄への信頼です。
(「ヘブライの信徒への手紙」111節)
   
 
「感情と信仰はまったく別物である」、
と私はしばしば言ってきました。
信仰は、
何も知らず、理性で理解できなくても気にせず、
目をつむって素直に御言葉に従います。
ところが、感情は、
理性で理解できることや、見聞きできることや、さわれるものに頼ります。
このように、感情と信仰とは正反対のものです。
ですから、救いに関しては、
感情から抜け出して、素直に神様の御言葉を聞きなさい。
それを心に入れ、感情に振り回されずに、
たとえあなたが自分の罪を感じている場合にも、
その罪はきれいに拭い取られていることを信頼し続けなさい。
どう感じているか観察したりせずに、
たとえ死や罪や地獄があなたを包囲している場合にも、
実はそれらはすでに敗北していることを堅く信じなさい。
なぜなら、
たとえ罪の感覚がまだ私たちの中に残っていても、
それは私たちを信仰へと追いやり、信仰を強める結果になるからです。
こうして私たちは、
あらゆる感情や理性的な考え方に反して、御言葉を自分のものとして受け入れ、
心と良心をいつもキリストに結びつけるようになるのです。
このように信仰は静かに罪や死や地獄を通り抜けて、私たちを導いていきます。
そしてようやく、私たちはあがないのみわざを自分の目でみるようになります。
そのときはじめて、自分たちが信じてきたこと、
すなわち、死やあらゆる不幸はすでに敗北していることを、
正しくまた完全に知るようになるのです。
 

2011年12月5日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ペテロの第二の手紙1章20節

 
聖書のどの預言に関しても
自己流の解釈によって説明するべきではないことを、
まずわきまえなさい。
(「ペテロの第ニの手紙」120節)
  
 
私たちは畏れとへりくだりの心を持って
神様の御言葉を読まなければなりません。
自分自身の賢さに頼って御言葉を説明しようとしてはいけません。
自分の賢さほど、私たちの妨げとなる有害な罪は他にありません。
御言葉を軽々しくあしらってもいけません。
聖書を読んでいて、もしも理解できない考えに出会ったなら、
帽子を外して敬意を表し、その先を読み続けましょう。
御言葉を侮ってはいけません。
人間の理解に合ったやり方で説明付けてもいけません。
御言葉には最大限の真摯さをもって接するべきであり、
御言葉を尊敬し、貴重なものとみなすべきです。
もしも気の向くままに御言葉に評価を下す態度を取るなら、
私たちは自己欺瞞に陥って窮することになります。
「自分の賢さ」という沼に沈んでいく者を、
そこから助け出すのは、容易なことではありません。

2011年12月2日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章16節


律法の行いによってはどの肉も義とはされません。
(「ガラテアの信徒への手紙」216節)
 

パウロの手紙でいう「肉」とは、
例の賢い連中による勝手な想像によれば「ひどい犯罪」のことですが、
それは間違った解釈です。
なぜなら、パウロはそのような犯罪にはちゃんと別の名称を与えているからです。
例えば、結婚を破る姦淫、姦淫一般、汚らわしいこと、というようにです。
パウロが「肉」という言葉であらわしているのは、
キリストがその言葉であらわしておられるのと同じものです、
「肉から生まれた者は肉です」(「ヨハネによる福音書」36節)。
すなわち、「肉」は
人間の生まれながらの性質や理性やさまざまな力すべてをさしています。
この「肉」は、
「行いによっては、さらには律法の行いによってさえ、義とされない」、
とパウロは言います。
パウロは、
「殺人、姦淫、泥酔など、律法に反する行いによっては、肉は義とされない」、
とは言わず、
「律法に基づいてなされたよい行いによっても、肉は義とされない」、
と断言しています。
つまり、ここで「肉」という言葉でパウロが意味しているのは、
人間が生まれながらにもっている場合がある、
至高の義、知恵、神崇拝、宗教性、理解力、意志のことなのです。

2011年11月30日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章16節より


 
人は律法の行いによっては義とされず、
イエス・キリストの信仰によって義とされることを知って、
私たちもまたキリスト・イエスを信じたのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」216節より)
  
神様は人間に対して怒りを鎮めてくださいました。
これは、人にとって高貴で偉大なことです。
神様の聖なる怒りを鎮めるためには、
モーセの律法や私たちの意志とは
まったく異なる仲介者が必要です。
さらに、彼らが「神の愛」と呼んでいる
あの類の恵みとも違うものが必要です。
私たちは、
信仰により心で受け入れたキリストという宝物を
自分のものとして所有しさえすればよいのです。
どれほどひどく自分が罪にまみれていることを
自覚している場合であっても、これは変りません。
このメッセージは含蓄に富んでいます。
律法の行いによってではなく、
キリストへの信仰によって義とされるということは、
空虚でも無力でもない御言葉です。
しかし、
自分の賢さを過信している人々は、
それを無力な言葉とみなし、
さっさとその前を素通りしてしまうのです。

2011年11月28日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヤコブの手紙1章12節より


 
試練に耐え抜く人はさいわいです。
(「ヤコブの手紙」112節より)
  
 
私の友よ、
主を待ち望み、主の守りに安心して信頼しなさい。
もしもクリスチャンとしての信仰を鍛える試練が何もないなら、
どれほど私たちクリスチャンが、
自分の罪深さを悲しまない、
怠惰で、安逸を愛する者に成り下がってしまうか、
あなたもよくお分かりでしょう。
試練がなければ、私たちには、
ローマ法王の教会で起きたのと同じことが起きるでしょう。
そうです、
試練はクリスチャンの薬であり、
乳香であり、アロエであり、
あらゆる害虫や皮膚病や疫病や体の怪我や汚れや罪に対する、
解毒剤なのです。
こういうわけですから、
私たちは試練を軽んじたり、
気の向くままに選り好みしてはいけないのです。
私たちは試練を、
神様が送ってくださる通りに、
そのまま受け入れなければなりません。
そうすれば、試練は、
それがどんなに大きかろうが、
どんな種類のものだろうが、
私たちに祝福と益をもたらすものになります。
   

2011年11月25日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 マタイによる福音書5章44節


私はあなたがたに言います、
「あなたがたの敵たちを愛しなさい。
そして、
あなたがたを迫害する者たちのために祈りなさい」。
 (「マタイによる福音書」5章44節)    
 
 
ここでは、
御言葉を聴く人と御言葉を説教する人とを区別しなければなりません。
御言葉を聴く人はいつも、
彼らを傷つけ迫害する人のために祈らなければなりません。
しかし、
御言葉を宣教する人は、
与えられている職務に従って懲罰し、
律法を説教しなければならない時があります。
同情心から叱らないでおくのは、正しい態度ではありません。
それにより、悪を支持することになってしまうからです。
福音を迫害し、自分が強いと思い込み、
福音を足蹴にする私たちの敵に対して、
「立派な方々、神様があなたがたの義しさと聖さに報いてくださるように」、
などと言ったり、
 彼らの悪行について沈黙を守り、
 彼らに屈服し、
 その足に口づけするようなら、
 私は悪を支持することになってしまいます。
 そうであってはなりません。
愛する友よ、
 噛まなければいけない時には、ちゃんと噛むことができるように、
 説教者の口には「歯」が必要です。
 真実を美化せずに公に伝えるために、
 説教者のメッセージには「塩」があるべきです。
もしも人々がその説教者の話を聴こうとしないなら、
 説教者は彼らに対して天を閉ざし、
 「地獄の火にふさわしい者よ」、と宣告するべきなのです。

2011年11月23日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 使徒の働き24章5節

  
この男は疫病のような存在で、
世界中のすべてのユダヤ人に対して騒ぎを巻き起こしており、
ナザレ人らの異端の先頭に立っている者であることが、
私たちにはわかりました。
(「使徒の働き」245節)
  
   
いたるところで次のような文句を耳にします、
「福音は平和をかき乱し、諍いを巻き起こしている。
福音が来てからというもの、何もかも昔より悪くなるばかりだ。
以前はあらゆる面で平穏と静謐に満たされていた。
迫害もなく、人々は皆互いに(少なくとも友人や隣人とは)
仲良く暮らしていたものだ」。
このような文句に対しては、次のように答えましょう、
「静かに平和に事が進むはずがありません。
福音の宿敵である悪魔が支配しているところでは、
それはありえないことです!」。
キリストがその福音によって悪魔の帝国を圧迫し続けておられる間は、
私たちも平和や安穏を期待してはいけません。
現在人々が取り戻したいと願っているあの以前の生活の平穏は、
本当に悲しむべきことでした。
そのような「平穏」は、
悪魔による支配とキリストの不在との確かな証拠だったからです。
しかし私は、
今人々が望んでいる通りに福音が私たちから取り去られて、
その「平穏」がいつか戻ってきてしまうのではないか、
と危ぶんでいます。
  
  

2011年11月21日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇32篇1節

 
咎が赦され、罪を覆われる人はさいわいです。(「詩篇」321節)
  
 
まったく罪がなかったり、何の罪も感じなかったりする人のことを、
私たちは真のクリスチャンとは呼びません。
そう呼ばれるにふさわしいのは、
キリストへの信仰のゆえに神様から罪を赦していただいた人です。
本当に苦しいときに、この教えは良心に安らかな慰めを与えてくれます。
キリストのゆえに人は罪赦され、義を「自分のもの」にしてよいと認められます。
クリスチャンは、とりわけ苦しいときには、
律法や罪とかかわりをもってはいけません。
このことを、私たちは無駄に繰り返し教えてきたわけではないのです。
クリスチャンであるならば、その人は律法と罪の上方にいます。
その人の心の中に、ちょうど指輪に宝石が埋め込まれているようにして、
律法の主なるキリストがとどまっておられるからです。
律法が責め立て、罪がおびえさせるときに、その人はキリストを見つめます。
その人がキリストを信仰によって理解しているなら、
律法と罪と死と悪魔に勝利し支配なさるお方がその人と共にいてくださるので、
それらがクリスチャンに危害を加えることはありえません。

2011年11月18日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙8章18節

 
今この時の苦しみは、
私たちに明らかにされる来るべき栄光にくらべれば、
取るに足りない、
と私はみなしています。
(「ローマの信徒への手紙」818節)
  
  
どんな反対を耐えなければならないとしても、
どんな十字架を担いでいかなければならないとしても、
それはすべて軽く好ましいものにかわります。
キリストが担わせるくびきは、私たちにぴったり合っており、
キリストがくださる荷は、軽いからです
(「マタイによる福音書」1130節)。
罪が赦され、
それによって良心の平安が与えられた今、
クリスチャンは他のあらゆることを容易に耐えることができます。
今や、すべてがクリスチャンにとって
心から好ましく喜ばしいものにかわっているからです。
それゆえクリスチャンは、
たとえ肉的にはさまざまな困難が伴うとしても、
霊的にはすべてを喜んで行い、すべてを耐えるのです。
ところが、人が自分の義によって生きる場合には、
すべての仕事や苦しみは、その人にとって
堪えようもないほど重く苦しいものにかわってしまいます。
その人はそれらのことを、やる気もなく嫌々ながら行うからです。

2011年11月16日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネの第一の手紙3章18節

 
子たちよ、
私たちは言葉や口によってではなく、
行いと真理によって愛そうではありませんか。
(「ヨハネの第一の手紙」318節)
 

私たちは、キリストを信じるようになったときには、
またよい行いについても、次のように学ぶようになります、
「あなたは信仰を通して、キリストを理解し、キリストをいただきました。
キリストを通して、あなたは義なのです。
ですから、あなたは行って、神様や隣人を愛しなさい。
神様に祈り、感謝し、神様を敬い、賛美し、その御名を告白しなさい!
よい行いをし、隣人に仕えなさい!
職務や地位に応じた義務を果たしなさい!」
恵みにより、キリストを通して、人が罪の赦しが受け入れるとき、
これら上に述べたことは、
信仰や真心からあふれでてくる本物のよい行いなのです。

2011年11月14日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 コリントの信徒への第一の手紙15章55節

 
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。
(「コリントの信徒への第一の手紙」1555節)
 
   
パウロはまるでこう言っているかのようです、
「死よ、お前の歯はどこにあるのか。
私の指でも噛みに来たらどうだ。
もっていた槍をどこに失くした。
そう、キリストがそれを取り去られたのだ。
お前のとげと力はどこに行った」。
ところで、「罪の力は律法である」、とパウロは言っています。
律法がはっきり知られるようになればなるほど、
それだけ罪は重くなり、痛く感じられます。
それゆえ、
「キリストは完全に死のとげを破壊してくださった」、
とパウロは言うのです。
このことをキリストは天国に持ち帰ったりはなさらず、
宣教を通じて世界中に広めるようになさいました。
そして、
キリストをこのような方として受け入れる人には、
槍が向かってくることもなく、
とげが待ち受けていることもなく、
その行く道には罪も死もありません。
これが、命と力を与えてくれる真の福音なのです。
ですから、キリストを正しく知るようになりましょう。
聖書によれば、義とは、キリストを正しく知ることにほかなりません。
 

2011年11月11日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙4章5節

 
悪人を義としてくださるお方を、
行いなくして信じる者に対して、
その信仰は義と認められるのです。
(「ローマの信徒への手紙」45節)
  

信仰と、キリストと、恵みを受けること(人が神様に認められること)、
この三つは互いに結びつけて理解されるべきです。
信仰は
「キリストが共にいてくださるお方である」と理解し、
キリストを「自分のもの」として受け入れます。
さらに信仰は、
ちょうど指輪に宝石が埋め込まれているように、
信仰の中にキリストがおられることを認めます。
このようにして心の中でキリストを信頼する人を、
神様は義とみなしてくださいます。
そしてこれは、
私たちが罪の赦しと義をいただける根拠であり報酬なのです。
神様はこう言われます、
「あなたは私を信じており、
あなたの信仰は、
私があなたに仲介者や大祭司として与えたキリストを、
ちゃんと理解しています。
それゆえに、あなたは義とされています」。
神様は、私たちを御自分の恵みの中に導いてくださいます。
すなわち、私たちを義と認めてくださいます。
それは、私たちがイエス様を信じているからです。

2011年11月9日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇94篇20節

  
法によって暴力を振るう、腐敗しきった裁定者は、
あなたと何の関係があるというのでしょうか。
(「詩篇」9420節)

 
何人かの頭の良すぎる愚か者たちは、
キリストとべリアルの間の意見の違いを調停するため、
「双方が妥協するべきだ」、と言います。
(中略)
彼らは、
あたかも悪魔が正しくて、キリストと意見が一致しているかように、
うまく見せかけることができる最初の連中になるでしょう。
しかし、そのような埋め合わせの作業は、
壊れたかめを張り合わせるようなもので、まったく愚かな試みです。
外に見える行いや儀式についてなら、
やろうとすれば調整できるかもしれません。
しかし、信仰やキリストの王国については、
神様はどのような改革や埋め合わせも望まれてはいません。
もしもそのようなことをやろうとすれば、
悪い結果を招くばかりで、しまいには完全に壊れてしまいます。

2011年11月7日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 イザヤ書53章12節

 
この方は多くの人々の罪を担われ、悪を行う者たちのために祈られました。
(「イザヤ書」5312節)
 
 
私たちはキリストが苦しまれた十字架を
他ならぬ「聖壇」とみなさなければなりません。
この聖壇でキリストは、
御自分のからだと霊とを私たちの罪のために捧げて、
苦しみの只中で祈られました。
それは、
キリストが御自分の牧師としての職務を証して、
私たちを恵みへと導き、罪から引き離し、
永遠の死から解放するためでした。
罪を取り除く方は、死をも取り除かれるのです。
パウロが教えているように、
死は罪の報酬です(「ローマの信徒への手紙」623節)。
罪がないところには、死も力を振るうことがありません。
死のないところには、悪魔や地獄もありません。
かわりにそこにあるのは、永遠の義と命と救いです。
キリストが十字架で、
御自分の犠牲と祈りによって、罪を取り去ってくださったいま、
死や悪魔や地獄は、私たちに対してもはや何の権威ももっていません。
(中略)
これは私たちの喜びであり慰めです。
私たちはそれについて心からキリストに感謝し、心を込めて宣教するべきです。
 

2011年11月3日木曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章16節


人は律法のわざによって義とされるのではなく、
イエス・キリストの信仰によって義とされることを、
私たちは知っています。
(「ガラテアの信徒への手紙」216節)
 
  
もしも救われたいのなら、
救いは行いのおかげではなくて、
私たちが御子を通して活きるようになるために
神様がその独り子を世に遣わされたおかげであることを覚えなさい
(「ヨハネの第一の手紙」49節)。
御子は十字架につけられ、あなたのために死なれました。
御子は私たちの罪を御自分のからだで担い、十字架の木へと運ばれたのです
(「ペテロの第一の手紙」224節)。
(中略)
律法は、罪人である私たちに対して罪を示し、おそれとへりくだりの心を起こし、
こうして私たちが義とされる用意を整えて、キリストの御許へと追い立てます。
神様は御言葉を通して御自分が優しい父親であることを知らせてくださいました。
神様は、私たちの行いなしに
(私たちは自分の行いによっては恵みの報いを受けることができないからです)、
キリストのゆえに、賜物として、
私たちに罪の赦しと義と永遠の命を与えたいと望んでおられます。
ただで恵みの賜物をすべての人に分け与えるのは、
賛美されるべき神様ならではの御性質なのです。
しかし、自分の行いに頼り、賜物を報酬として受け取ろうとする者は、
神様からその栄光を奪ってしまいます。
このような人々を信仰へ導くために、
神様はあらかじめ律法を与えなさったのでした。
それは、律法があたかも稲妻や雷鳴のように、
実に硬い「岩々」を恐れさせ、砕くためなのです。