2011年4月28日木曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」10月16日~20日

  
   
10月16日

主の御名によって叫ぶ者は皆ひとりひとり救われるでしょう。
(「ヨエル書」3章5節より)

まずなによりもこの「皆ひとりひとり」という無制限の言葉に注目しましょう!それは誰をも救いの外へ閉め出したりはしません。この救いを神様は、御自分に助けを求めて叫ぶ者に御自分の自由意志によりただで与えることを約束しています。私たちはこのことを知らなければなりません。人間の心なるものは、神様の御言葉に信頼しない間は、「神様は誰を憐れんでくださるか」という問題について危険な考えを思いつくものだからです。この「ヨエル書」にある約束は神様の憐れみを例外なくすべての人に提供しています。また、神様の御言葉に仕える者には皆ひとりひとりに罪の赦しを宣言するように、命令を受けています。



10月17日

神様御自身が来られて、あなたたちを救い出すでしょう。
(「イザヤ書」35章4節より)

神様の恵みを誰も疑ってはなりません。全世界とすべての罪に対抗してでも神様の助けに信頼するべきです。しかし、自分自身はまったくだめだとみなすべきです。「ほんの小さなよいことぐらいなら行える」などと思ってはなりません。



10月18日

神様はモーセに「私は自分の憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ」と言われました。それは(人間の)意志や努力によっているのではなく、ただ神様の憐れみによっているのです。
(「ローマの信徒への手紙」9章15~16節)

これは傲慢な者たちに対して言われている御言葉です。私(神様)が慈しみを与える者は慈しみをもちつづけます。しかし、あなたがたは自分自身の聖さによっては、私があなたがたに慈しみを与えるようにはできません。あなたがたはそれを自分の義や正しさによって探し求めていますが、私はそれを認めません。そのようなことになるくらいなら、むしろ私はすべての牧師職や大国や律法さえも滅ぼすことでしょう。あなたがたはもう一度私の恵みに立ち戻りなさい。そうすればそれを得ることができます。



10月19日

裁きが神様の家から始まる時が来ました。しかし、もしもそれが私たちから始まるのであれば、神様の福音に反抗する者たちの結末はどうなるのでしょう。もしも義人がかろうじて救われるとすれば、神様を信じない者や罪人は一体どうなってしまうのでしょう。
(「ペテロの第一の手紙」4章17~18節)

すべての肉(つまり人間)はいつか自分に下される「裁き」を聞くことになります。それは、罪の赦しという「恵みの裁き」か、あるいは「滅びの裁き」かのどちらかです。そしてキリストが世に宣告なさった裁きは決して変更されることがありません。「信じて洗礼を受ける者[1]は救われることになります[2]。信じない者[3]は滅びへと裁かれることになります[4]」
(「マルコによる福音書」16章16節)。



10月20日

御父様は、御自分のうちに命をもっているのと同じように、御子にもまた御自分のうちに命をもつことをお許しになりました。そして御子に裁きを行う権威をお与えになりました。それは御子が人の子だからです。このことに驚いてはいけません。墓にいる者が皆、御子の声を聞き、善を行った者は命を受けるために復活し、また悪を行った者は裁きを受けるために復活し、墓から出てくる時が来るでしょう。
(「ヨハネによる福音書」5章26~29節)

「最後の日」には滅んだ者たちも再び生まれます。しかし、それは新たな変化を伴わないままでの再生です。彼らは、この世で生きている間に古いアダムに支配されていたのと同じように、再生しても相変わらず汚ならしいままなのです。


[1] 二つの分詞は共にアオリスト。「信じる」をあらわす動詞は能動態、「洗礼を受ける」をあらわす動詞は受動態である(幼児洗礼に端的に示されているように洗礼は人間のわざではなく神様のみわざであることがこの受動態から読み取れよう)。アオリスト分詞は、継起的ではなく一回的な状況ををあらわしている。洗礼を一回的に受けた者にとってキリストの「裁き」の瞬間に「信じて」いるのが決定的に大切であることをこの御言葉は語ってはいないだろうか。
[2] 受動態未来形。救いにあって人間は「受身」の立場にある。
[3] これもアオリスト分詞。
[4] 受動態未来形。キリストの裁きのときに「信じない」者は、その間違った能動性のゆえに、裁きを「受ける」ことになる。

2011年4月26日火曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」10月11日~15日

     
10月11日

あなたたちは再び恐れへと陥れる「奴隷の霊」ではなく、「子供になる権利を与える御霊」を受けたのであり、その御霊の中で「アバ、お父さん!」と私たちは叫ぶのです。
(「ローマの信徒への手紙」8章15節)

神様の子供の心の中には勇気に満ちた「アバ(「お父さん」という意味)」という叫びのみが響いている、などと思い込んではなりません。その中では嘆きの叫びも聞かれるのです。これは聖徒が皆、体験してきたことです。罪もまた良心の中で人を絶望に追いやるはずです。しかし、キリストの御霊の叫びは、信頼が疑いに打ち勝つほど圧倒的に力強いはずです。ヨハネがこう言っている通りです、「そこから私たちは、自分たちが真理から出ていることを知るでしょう。そして、私たちは心を神様の御前で安らかにさせるでしょう。たとえ私たちの心が(私たちを)責め立てたとしても、神様は私たちの心よりも大きい御方であり、すべてを御存知だからです」(「ヨハネによる第一の手紙」3章19~20節)。



10月12日

民よ!どんなときでも神様に信頼しなさい。神様の御前にあなたたちの心を注ぎ出しなさい。神様は私たちにとって避けどころなのです。
(「詩篇」62篇9節)

あなたたちに何かが欠けているときには、心を神様にすっかりお渡しし、心配を隠さず自由に語りなさい。ちょうど一番の親友に話すように、心を開いて神様にはっきりとすべてを語りなさい。神様は喜んで聴き、諭し、助けてくださいます。



10月13日

イエス様が天使たちのことではなく、アブラハムの子孫のことに配慮されているのは確かです。それゆえ、神様の御前で憐れみ深く忠実な大祭司となって、民の罪を贖う[1]ために、イエス様はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです。
(「ヘブライの信徒への手紙」2章16~17節)

私のことをキリストほどよく理解してくれる人はほかにいません。キリストほど私の近くにいてくれる人もいません。キリストほど私に親しく心のこもった関係にある人もほかにいません。それほど、キリストは私を御自分と共にいるようにと、ごく近しくまたしっかりと関わってくださっています。私は、ほかならぬキリストからあらゆるよいことをいただける、と期待してよいのです。なぜなら、心の正しい父親が自分の小さな子供を愛するよりもさらに優しく、キリストは私を愛していてくださるからです。



10月14日

シモン、シモン、ごらんなさい、サタンがあなたたちを麦のようにふるいにかけるためにあなたたちのことをつぶさに調査しました。しかし、私はあなたの信仰がなくならないようにとあなたのために祈りました。ですからあなたは、立ち直ったときにあなたの兄弟たちを力づけてあげなさい。
(「ルカによる福音書」22章31~32節)

人はあらゆる苦しみや戦いにおいて、神様の守りの中へと急いで逃げ込まなければなりません。人は「自分の身の上に起きるあらゆることは、それを引き起こしたのがサタンか人間かには関わりなく、神様の許可に基づいて起きている」ことを知っておかなければなりません。悪魔や世は私たちから髪の毛一本さえも持ち去ることができない、というのは実に素晴らしい慰めです!言葉で言い表しようのないほど素晴らしい父親的な配慮ではありませんか!



10月15日

日がたって、カインは地の産物の一部を供え物として主の御許に携えて来ました。アベルもまた自分の羊の初子たちとそれらの最上の部分を携えて来ました。主はアベルとその供え物とを顧みられましたが、カインとその供え物は顧みられませんでした。非常な怒りがカインを満たし、カインはその顔を伏せました。
(「創世記」4章3~5節)

この例はアベルのためではなく、アベルに似て貧しい神様の子供たちのために書かれています。たとえカインが傲慢に彼らを蔑むとしても、神様は彼らのことを忘れず、見捨てず、彼らに憐れみの目を向けられます。そして、カインをその長子の特権や供え物とともに流浪するに任せられます。


[1] 「イエス様が罪を贖った」とは「イエス様がその貴い十字架の死によって民を罪の支配から買い戻してくださった」という意味です。