10月16日
主の御名によって叫ぶ者は皆ひとりひとり救われるでしょう。
(「ヨエル書」3章5節より)
まずなによりもこの「皆ひとりひとり」という無制限の言葉に注目しましょう!それは誰をも救いの外へ閉め出したりはしません。この救いを神様は、御自分に助けを求めて叫ぶ者に御自分の自由意志によりただで与えることを約束しています。私たちはこのことを知らなければなりません。人間の心なるものは、神様の御言葉に信頼しない間は、「神様は誰を憐れんでくださるか」という問題について危険な考えを思いつくものだからです。この「ヨエル書」にある約束は神様の憐れみを例外なくすべての人に提供しています。また、神様の御言葉に仕える者には皆ひとりひとりに罪の赦しを宣言するように、命令を受けています。
10月17日
神様御自身が来られて、あなたたちを救い出すでしょう。
(「イザヤ書」35章4節より)
神様の恵みを誰も疑ってはなりません。全世界とすべての罪に対抗してでも神様の助けに信頼するべきです。しかし、自分自身はまったくだめだとみなすべきです。「ほんの小さなよいことぐらいなら行える」などと思ってはなりません。
10月18日
神様はモーセに「私は自分の憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ」と言われました。それは(人間の)意志や努力によっているのではなく、ただ神様の憐れみによっているのです。
(「ローマの信徒への手紙」9章15~16節)
これは傲慢な者たちに対して言われている御言葉です。私(神様)が慈しみを与える者は慈しみをもちつづけます。しかし、あなたがたは自分自身の聖さによっては、私があなたがたに慈しみを与えるようにはできません。あなたがたはそれを自分の義や正しさによって探し求めていますが、私はそれを認めません。そのようなことになるくらいなら、むしろ私はすべての牧師職や大国や律法さえも滅ぼすことでしょう。あなたがたはもう一度私の恵みに立ち戻りなさい。そうすればそれを得ることができます。
10月19日
裁きが神様の家から始まる時が来ました。しかし、もしもそれが私たちから始まるのであれば、神様の福音に反抗する者たちの結末はどうなるのでしょう。もしも義人がかろうじて救われるとすれば、神様を信じない者や罪人は一体どうなってしまうのでしょう。
(「ペテロの第一の手紙」4章17~18節)
すべての肉(つまり人間)はいつか自分に下される「裁き」を聞くことになります。それは、罪の赦しという「恵みの裁き」か、あるいは「滅びの裁き」かのどちらかです。そしてキリストが世に宣告なさった裁きは決して変更されることがありません。「信じて洗礼を受ける者[1]は救われることになります[2]。信じない者[3]は滅びへと裁かれることになります[4]」
(「マルコによる福音書」16章16節)。
10月20日
御父様は、御自分のうちに命をもっているのと同じように、御子にもまた御自分のうちに命をもつことをお許しになりました。そして御子に裁きを行う権威をお与えになりました。それは御子が人の子だからです。このことに驚いてはいけません。墓にいる者が皆、御子の声を聞き、善を行った者は命を受けるために復活し、また悪を行った者は裁きを受けるために復活し、墓から出てくる時が来るでしょう。
(「ヨハネによる福音書」5章26~29節)
「最後の日」には滅んだ者たちも再び生まれます。しかし、それは新たな変化を伴わないままでの再生です。彼らは、この世で生きている間に古いアダムに支配されていたのと同じように、再生しても相変わらず汚ならしいままなのです。
[1] 二つの分詞は共にアオリスト。「信じる」をあらわす動詞は能動態、「洗礼を受ける」をあらわす動詞は受動態である(幼児洗礼に端的に示されているように洗礼は人間のわざではなく神様のみわざであることがこの受動態から読み取れよう)。アオリスト分詞は、継起的ではなく一回的な状況ををあらわしている。洗礼を一回的に受けた者にとってキリストの「裁き」の瞬間に「信じて」いるのが決定的に大切であることをこの御言葉は語ってはいないだろうか。
[2] 受動態未来形。救いにあって人間は「受身」の立場にある。
[3] これもアオリスト分詞。
[4] 受動態未来形。キリストの裁きのときに「信じない」者は、その間違った能動性のゆえに、裁きを「受ける」ことになる。