9月16日
私を遣わされたお父様がその人を引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとにくることはできません。そして、私はその人を終わりの日によみがえらせるでしょう。
(「ヨハネによる福音書」6章44節より)
自分で自分を救うことができないとわかり、(聖書の)教えを受け入れて自分を救ってほしいと願う人たちが、僅かとはいえ今もなお存在します。彼らは自分自身に欠点があることを知っており、またそれゆえ嘆き怯えている良心の持ち主たちです。彼らは御言葉をいくら聴いても読んでも、決して飽きることがありません。彼らは御言葉を真剣に受け取り、自分自身の義や正しさについては何も知りません。彼らは聖霊様の力によって神様へと自分たちが引き寄せられていくのにゆだねています。
9月17日
見なさい、私が保つ私の僕を、私の御心に適う私の選んだ者を。私は自分の霊を彼の上に与え、彼は正義を諸々の民にもたらします。
(「イザヤ書」42章1節)
キリストは神様の御心に適うお方です。私たちがキリストを愛するとき、私たちもまた神様のご好意をいただけます。私たちはその中で十分に守られているのだ、と思います。「詩篇」(91篇10節)に言われているように、そこには悪が入り込む余地のない自由の都があります。神様の御心に適うためには信仰が不可欠です。どんな律法も助けにはならず、どんな行いや業績も十分ではありません。
9月18日
私たちは退いて滅びる者の中の一人ではなく、魂を救う信仰をいただいている者です。信仰とは、希望していることがらを確信することであり、まだ見ていないことがらを確証するものです。
(「ヘブライの信徒への手紙」10章39節、11章1節)
私たちは自分の心の中に罪の存在を依然として感じているため、罪が私たちから取り去られていないかのように見えることがよくあります。しかし、私たちは感情や感覚に頼るのを捨てて、単純に御言葉を手にとって、心に書き込み、信頼しなければなりません。
9月19日
感謝をささげる者は私をあがめています。(正しい)道にとどまる者に私は神様の救いを見せましょう。
(「詩篇」50篇23節)
「感謝のささげものは私(神様)の栄光のためにささげられます。そうすることで人々は私に仕えています。人々が私に感謝をささげる理由は、私が幸せに満ちた救いがどのようなものか、彼らにはっきり示しているからです」。このようなささげもの(感謝)は、ほかのどんなささげものよりも神様を喜ばせます。不信仰な偽善者は神様に、あたかも神様がそれを必要としてでもいるかのように、自分の奉仕を押し付けようとします。しかし、神様は私たちに「与えたい」と望んでおられまた「実際に与えてくださる」お方です。なぜなら、私たちこそ、神様のくださるよきものを必要としているからです。神様が望んでおられるのは、私たちが感謝の心をもち、御自身を私たちの神様として受け入れることだけです。
9月20日
試練を耐え抜く人は幸いです。その人は試みを乗り越えると、神様を愛する人々に約束されている命の冠を受けるでしょう。
(「ヤコブの手紙」1章12節)
苦難は私たちの信仰生活を知恵と御言葉の告白によって深め豊かなものとします。また苦難は私たちの希望を強め、キリストの王国を広めます。ですから次のように言うことにしましょう、「私は苦難を嘆いたり自慢したりせず、愛する神様が私に担うようにと与えてくださるすべてのことを忍耐強く担いたいと思います。神様が私をこのように大きくまた満ち溢れた善性と恵みへと召してくださったことを、私は心から神様に感謝したいと思います」。