2011年4月11日月曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」9月16日~20日

  
 
916

私を遣わされたお父様がその人を引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとにくることはできません。そして私はその人を終わりの日によみがえらせるでしょう。
ヨハネによる福音書644節より)

自分で自分を救うことができないとわかり(聖書の)教えを受け入れて自分を救ってほしいと願う人たちが、僅かとはいえ今もなお存在します彼らは自分自身に欠点があることを知っており、またそれゆえ嘆き怯えている良心の持ち主たちです。彼らは御言葉いくらいてもんでも、決して飽きることがありません。彼らは御言葉を真剣に受け取り、自分自身の義や正しさについては何も知りません。彼らは聖霊様の力によって神様へと自分たちが引き寄せられていくのにゆだねています。



917

なさい、私が保つ私の僕を、私の御心に適う私の選んだ者を。私は自分の霊を彼の上に与え、彼は正義を諸々の民にもたらします
イザヤ書421節)

キリストは神様のに適うお方です。私たちがキリストを愛するとき私たちもまた神様のご好意をいただけます。私たちはその中で十分に守られているのだ、と思います詩篇9110節)に言われているように、そこには悪が入り込む余地のない自由の都があります神様の御心に適うためには信仰が不可欠で。どんな律法も助けにはならず、どんな行いや業績も十分ではありません



918

私たちは退いて滅びる者の中の一人ではなく、魂を救う信仰をいただいている者です。信仰とは、希望していることがらを確信することでありまだ見ていないことがらを確証するものす。
ヘブライの信徒への手紙1039節、111節)

私たちは自分のの中にの存在依然として感じているため、私たちから取り去られていないかのように見えることがよくります。しかし、私たちは感情や感覚に頼るのを捨てて単純に御言葉を手にとって、心に書き込み信頼しなければなりません



919

感謝をささげる者は私をあがめています。(正しい)道にとどまる者に私は神の救いを見せましょう。
詩篇5023節)

「感謝のささげものは私(神様)の栄光のためにささげられます。うすることで人々は仕えています。人々が私に感謝をささげる理由は、私が幸せに満ちた救いがどのようなものか、彼らにはっきり示しているからで」。このようなささげもの(感謝)は、ほかのどんなささげものよりも神様を喜ばせます。不信仰な偽善者は神様に、あたかも神様がそれを必要としてでもいるかのように、自分の奉仕を押し付けようとします。しかし、神様は私たちに与えたいと望んでおられまた実際に与えてくださる」お方。なぜなら、私たちこそ神様のくださるよきものを必要としているからで。神様が望んでおられるのは私たちが感謝の心をもち、御自身を私たちの神として受け入れることだけ



920

試練を耐え抜く人は幸いで。その人は試みを乗り越えると、神様を愛する人々に約束されている命の冠を受けるでしょう。
ヤコブの手紙112節)

苦難は私たちの信仰生活を知恵と御言葉告白によって深め豊かなものとます。また苦難は私たちの希望を強め、キリストの王国を広めますですから次のように言うことにしましょう、「私は苦難を嘆いたり自慢したりせず、愛する神様が私担うようにと与えてくださるすべてのことを忍耐強く担いたいと思います。神様が私をこのように大きくまた満ち溢れた善性と恵みへと召してくださったことを私は心から神様に感謝したいと思います」。