9月21日
多くの民は来て言います、「さあ、私たちは主の山に登り、ヤコブの神様の家へ行きましょう。神様が御自分の道を私たちに教えてくださいます。私たちはその道を歩みましょう。律法はシオンから出、主の御言葉はエルサレムから出るからです」。
(「イザヤ書」2章3節)
主の道は主のみわざ、とりわけ、主が私たちの中で働かれるみわざです。主は、悪魔の仕業、罪、死、嘆き、恐れ、あらゆる不幸、さらには私たちの日々の堕落までをも消し去って、私たちの中にそれらとは反対のもの、すなわち、希望、正義、忍耐、喜び、平和を生み出してくださいます。
9月22日
そこで私もあなたに言います。あなたはペテロです。私はこの岩(ギリシア語で「ぺトラ」)の上に私の教会を建てます。地獄の門もそれに打ち勝つことがありません。
(「マタイによる福音書」16章18節)
信仰は海を乾いた道に変えますが、不信仰はペテロの乾いた道を再び海にしてしまいます。信じる者にすべてが可能です(「マルコによる福音書」9章23節)。それとは反対に、信じない者にはすべてが不可能です。信仰は「神々」すなわち「神様の子供たちや奇跡を行う者たち」を生み出し、不信仰は「人間」すなわち「悲惨の子ら」を生み出します。
9月23日
もしも肉に従って生きるならば、あなたがたは死ぬことになりますが、もしも御霊によってからだの働きを殺すなら、あなたたちは生きるでしょう。
(「ローマの信徒への手紙」8章13節)
ここでパウロが言っているのは、クリスチャンの中にもまだ殺すべき肉、言い換えるなら、神様の御命令に反抗するあらゆる誘惑や欲望が残っている、ということです。これらは人間の性質の中で活発に活動し、パウロが「罪のわざ」と呼んでいる様々な罪へ人間を陥れようとします。「罪のわざ」とは、不信仰な考え、疑い、肉的な欲望を悲しまない心、神様を畏れない傲慢さ、神様の御言葉と祈りに対する冷淡さと鈍さ、苦難の中での忍耐不足と不平、隣人に対する憤懣、復讐心や嫉妬や怒り、貪欲、姦淫などのことです。これらの罪の傾向は人間の性質の中にあるため、それらは人間の中でたえず活動し、人間を誘惑へとそそのかしています。御霊は肉を殺してくださるためには、まず、人は自分の罪を告白しなければなりません。そして、罪深い欲望が自分の中で動めくのを感じる場合には、心を落ち着かせて神様の御言葉を思い起こさなければなりません。また、それらの罪と戦うときには、罪の赦しを信じて自分を強めなければなりません。
9月24日
(「マタイによる福音書」8章23~24節)
もしもキリストと共に舟に乗っていたいのなら、あなたは嵐を避けることができません。あなたが試練を体験するために、キリストは眠っておられるのです。もしもキリストが眠っておられず速やかに嵐を静めてくださるなら、私たちはクリスチャンであることの困難さを決して知ることはないでしょうし、「嵐は私たちの力のおかげで静まったのだ」と信じるようにさえなるかもしれません。ここでは体験が信仰を強めています。人間の力はまるで役に立たなかったことを私たちは告白しなければなりません。助けは神様から御言葉を通して来たのです。
9月25日
モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて彼らに言いました、「そむく者たちよ、聞きなさい。私たちはこの岩から水をあなたたちのために出さなければならないとでもいうのですか」。
(「民数記」20章10節)
あれほど強い賛嘆すべき信仰をもっていたにもかかわらず、水を岩から杖で出さなければならなくなったときに、モーセは深刻な疑いにとらわれました。あれほど多くの奇跡を行ったにもかかわらず、私たちの愛するモーセは理性と肉的な思いに圧倒されて、「民の不信仰はこの偉大な奇跡が起きるのを妨げるのではないか」とおそれました。本当なら、モーセは神様の御言葉に信頼すべきだったし、それを民の不信仰よりも高く大きく強いものと見なすべきだったのです。