9月26日
信仰によって、モーセは成人したときに「ファラオの娘の子」と呼ばれることを拒み、儚い罪の享楽に耽るよりも神の民と共に苦しみを甘受する道を選び、キリストが受けられる侮辱をエジプトの財宝にまさる富と見なしました。それは彼がその報いを望み見ていたからです。
(「ヘブライの信徒への手紙」11章24~26節)
キリスト御自身が苦しまれたゆえに受難は非常に貴いものになりました。本来ならば人は、自分がこの賛美されるべき大いなる恵みにあずかるにはふさわしくない、と見なすべきところです。それゆえ、私はお願いします、愛する友よ!苦しみをおそれないように!殺されることさえもおそれないように!あなたたちは(天国の)真の共同相続人としてキリストと共に苦しまなければならないのです。私たちの救い主イエス・キリストが御自分で用意してくださった永遠の栄光に較べたら、この人生の苦しみは何ほどのものでしょうか?
9月27日
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたささげものを神様へささげました。信仰によって、義なる者と認められ、神様が彼の供え物を認めてくださったのです。そして信仰によって、アベルは、死んだにもかかわらず、今もなお語りかけています。
(「ヘブライの信徒への手紙」11章4節)
私たちは、神様を信じてあらゆるよいものを神様から求めつつ行動することよりも素晴らしいやり方で神様に従い仕え敬意を表することはできないし、これよりすぐれたささげものを神様にささげることもできません。
9月28日
キリストにあって私たちはその血による贖い、罪過の赦しをいただいています。(「エフェソの信徒への手紙」1章7節より)
これらの御言葉は、罪の赦しが神様の御前で完全に私たちの義であることを証しています。私たちは、私たちと争い私たちに私たち自身の罪とよい行いとを示す理性よりも遥か上方へと登り、自分の罪もよい行いも気に留めず、他の一切を無視してでもこれらの御言葉を一切の基盤とすることを学んでいかなければなりません。私たちは罪に対してもよい行いに対しても、恵みすなわち赦しをかかげて、あらゆる人間的な義や聖を取り除きます。
9月29日
御使いたちはすべて仕える霊であって、救いを受け継ぐことになっている人たちに奉仕するために遣わされたのではありませんか。
(「ヘブライの信徒への手紙」1章14節)
もしも私が、天地の造り主なる神様が私のお父様であることを完全に理解するならば、次のことも理解できるでしょう。私も天地の主であり、キリストは私の兄であり、キリストの富はすべて私のものであり、ガブリエルは私の召使であり、ラファエルは私の御者であり、すべての天使は天のお父様が困っている私を助けるために与えてくださる私に仕える霊である、ということを。
9月30日
私の兄弟たちよ、もしもあなたがたの中の誰かが真理から迷い出て、誰かがその人を引き戻すなら、罪人をその迷いの道から引き戻す者は、その罪人の魂を死から救い、多くの罪を覆うことになるということを、知りなさい。
(「ヤコブの手紙」5章19~20節)
神様は隣り人に私たちを通して仕えることを望んでおられます。神様は私たちの宣教と生活を通して彼らを信仰に導きたいと思われています。神様は御自分の天使たちを通してそれを行うことができるのに、あえて人間を通して行われるのです。それは、信仰がそれだけいっそう力強くまた素晴らしいものとなるためなのです。もしも天使たちが私たちのところに絶え間なく訪れるならば、信仰はもはや必要ではなくなることでしょう。