10月6日
恵みにより、信仰を通して、あなたがたは救われました。そしてこれが実現したのは、あなたがたによるものではなく、神様の贈り物によるものです。それは行いによるものではありません。誰もその行いを誇ることがないためです。私たちは神様の創造物であり、イエス・キリストにあって神様が予め備えてくださったよい行いを行うために造られました。それは私たちがそれらのよい行いの中を歩むためなのです。
(「エフェソの信徒への手紙」2章8~10節)
クリスチャンのよい行いには名称も時間も場所もありません。それらは、いつどこで彼らが行ったとしても、よい正しい行いなのです。
10月7日
今までに書かれていることはすべて、私たちを教えるために書かれたのです。私たちが、忍耐により、また聖書による慰めによって、希望をもつためです。
(「ローマの信徒への手紙」15章4節)
隣人の罪や弱さを耐えることは、決して些細な十字架や苦しみではありません。それどころか、それはある人たちにとってあまりにも重荷であり、そのため彼らはそれを耐えるよりもむしろ自分にも他の人にも死を望むほどです。このような苦難においても忍耐をもちつづけるために、私たちは聖書によって慰めをいただくべきです。パウロは私たちのために大変ひどく苦しまれたキリストを、苦しみを耐え抜かれた模範として提示しているのです。
10月8日
人は皆、はじめによいぶどう酒を出して、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました。
(「ヨハネによる福音書」2章10節より)
ことを運ぶやり方が人と神様の間で互いにどれほど異なっているかに注目してください。人ははじめに最上のものを出し、それから劣るものを出します。神様ははじめに十字架と苦しみを与え、それから栄光と救いを与えてくださいます。神様ははじめに人の良心を動揺させ、苦いぶどう酒を、場合によってはただの水をお与えになりますが、そのあとで福音に基づく約束によって慰めてくださいます。そして、その約束は永遠に有効でありつづけるのです。
10月9日
金銭を愛さずに与えられているもので満足する習慣を身に付けなさい。神様がこう言われているからです、「私はあなたを決して捨てず、あなたを決して置き去りにはしません」。それゆえ、私たちは心を落ち着けてこう言います、「主は私の助け主です。だから私は恐れません。人は私に何ができるというのでしょう」。
(「ヘブライの信徒への手紙」13章5~6節)
自分が強いと思い込み、見捨てられたと感じたことがない者たちを、神様は一度も助けたことがありません。助けを必要とし、求めている人たちを、神様は決して見捨てたことがありません。聖霊様に助けを求めるのは怯えている魂だけです。
10月10日
苦難の日に私に叫びなさい。私はあなたを救い出し、あなたは私を敬うでしょう。
(「詩篇」50篇15節)
起きて、ひざまずきなさい。まなざしと手を天に向けて、詩篇か主の祈りを唱えなさい。そして自分の苦しみを神様へ打ち明けなさい。嘆きなさい。祈りなさい。叫びなさい。神様は、あなたが苦しみを抱いたまま、それを何倍にも大きくして自分自身を痛めつけるのではなく、その苦しみを神様にすべて委ねることを望んでおられるのです。