9月6日
私があなたがたにも伝えたことは、私が主から受けたことです、すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り祝福してこれを裂き言われました、「これはあなたがたのための私の身体です。あなたがたは私の記念としてこれを行いなさい」。また杯をも同じようにして食事の後言われました、「この杯は私の血における新しい契約です。あなたがたは飲むたびごとに私の記念としてこれを行いなさい」。あなたがたはこのパンを食べこの杯から飲むたびごとに、主が帰って来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」11章23~26節)
キリストは、御言葉によって皆を慰めてくださるだけではなく、ここで御言葉がはっきりと語っているように、パンと共に御自身の身体を食べ物として、ぶどう酒と共に御自身の血を飲み物として、あなたに与えてくださいます。
9月7日
(「ペテロの第一の手紙」1章24~25節(前半))
この世は、偽りの信仰を誇るか、信仰をもたずに聖でありすぎるか、いつもそのどちらかです。もしも私たちが「信仰と神様の恵み」について説教すれば、もう誰もよい行いについて知りたいとは思わなくなってしまいます。もしも私たちが「よい行い」について話せば、もう誰も信仰について気にかけなくなってしまいます。黄金の中道を歩む者はまれです。その道は真のクリスチャンにとってさえ困難です。
9月8日
もしもアブラハムがよい行いに基づいて義とされたのならば、彼には誇る理由があります、ただし、神様の御前では別です。
(「ローマの信徒への手紙」4章2節)
私たちも正しい人たちには誇るべきもっともな理由があると思っています。それよりも素晴らしいことがこの地上にありうるでしょうか。しかしながらそれも、太陽、月、穀物、ぶどう酒、その他すべての被造物と同じく、神様からの賜物なのです。物事を混同しないように気をつけましょう!この世で正しいと認められている人に、その人がこの世では際立って貴重な存在であることをちゃんと認めてあげて、程よい栄光を与えましょう。しかし、そうしたところで、その人がクリスチャンになるわけではないことを覚えておきましょう。
9月9日
神様は、私たちが民に宣教し、「この方(イエス・キリストのこと)は生きている者と死んでいる者とを裁かれるために神様によって任命された」ことを証しするよう、お命じになりました。この方についてすべての預言者は、「この方を信じている者は皆、この方の御名を通して罪の赦しをいただける」ことを証しています。
(「使徒の働き」10章42~43節)
たった一つの説教が心に深く突き刺さり、その影響がずっと後にも続いていくことがあります。その後の人生でその人が聴く説教の数々は、初めに聴いたあの説教を補強するか、あるいは侮辱するか、そのどちらかです。
9月10日
このためにあなたがたも召されているのです。キリストもあなたがたのために苦しまれ、あなたがたに模範を残してくださいました。それは、あなたがたがその御跡に付き従っていくためです。
(「ペテロの第一の手紙」2章21節)
すべてのクリスチャンの受難は、今日もまたキリストの受難に隠され、覆われ、その無垢さによって飾られなければなりません。私たちは、全キリスト教会と共に「私たちの罪を赦してください」と告白しつつ、罪の赦しの信仰告白を祈らなければなりません。私たちの受難は、たとえそれが最も悪く大きく難しいものだとしても、キリストの御跡にはるか後ろから従うことにほかならないからです。