9月11日
このように万軍の主は言われます、「この民は『主の家が建てられるときはまだ来ていない』と言っています」。
(「ハガイ書」1章2節)
もしも人が神様の御言葉の説教に関心を払わずに、各々ただ自分の経済状態のことだけを考える場合には、私たちが預言者の言葉から聞いたように、神様はこう言われます、「私の家が朽ち果てているというのに、あなたたちは贅沢な家に住む余裕があるのですか。万軍の主は今こう言われます、『あなたたちがどうなったか見てみなさい。たくさん蒔いても収穫は僅かです。いくら食べても空腹のままです。どれほど飲んでも喉の渇きは収まりません。何枚服を身に着けていても暖まりません。働き人の給料はまるで財布に穴が開いているかのように減って行きます』」(「ハガイ書」1章4~6節)。しかもこれは(神様への)このような侮蔑に対する最も軽い懲らしめなのです。
9月12日
私が呼んだのに、あなたたちは拒絶しました。私は手を差し伸べたのに、それに注意を払う者はいませんでした。あなたたちは私の助言をまったく受け入れず、私の懲らしめを好みませんでした。私も、あなたたちが困難に陥ったときに笑い、あなたたちが恐れているものがやって来るときに嘲ることでしょう。
(「箴言」1章24~26節)
キリギリスは冬に食べるものがもう何もなくなったので、アリのところに助けを求めに来ました。「まったく蓄えがないとは、夏に何をしていたのですか」、とアリがたずねると、「歌っていました」、とキリギリスは答えました。そのときアリはこう言い返しました、「もしも夏に歌っていたのなら、冬には踊りなさいな!」。
9月13日
ごらんなさい、今は真に待望されてきた恵みの時、今は救いの日です。
(「コリントの信徒への第二の手紙」6章2節より)
もしも私たちが主がくださる恵みと救いの喜びの日を受け入れようとしないなら、主は私たちに嘆きと不幸の悲しみの夜を与えることもできます。もしも私たちが平和の説教の優しいメッセージを聴こうとしないなら、悪魔の殺意に満ちた叫び声を周囲に聞くことになるでしょう。今や私たちが恵みの日を知って、満ち溢れる「黄金の年」[1]を楽しむべき時です。
9月14日
さて兄弟たちよ、あなたがたの指導者たちと同様に、あなたがたは無知からあのようなことをしたのを私は知っています。神様は預言者全員の口を通して、御子キリストの受難を予告なさいましたが、それをこうして成就されたのです。
(「使徒の働き」3章17~18節)
彼らは残念ながらこの方が栄光の主であることを知りませんでした。しかし、神様はそれを彼らの益としてくださいました。神様は御霊を遣わしてくださいました。それは、あなたたちが悔い改めて主に助けていただき、祝福を受けて救いの幸せをいただくためです。
9月15日
お父様が私に与えてくださる者は皆、私のもとへ来るでしょう。そして、私のもとに来る者を私は決して追い払いません。
(「ヨハネによる福音書」6章37節)
「私のもとに来る者を私は決して追い払わない」と言われるとき、主は御自分をこの上なく優しいお方として描き出しておられます。それは私たちが主をどのようなお方と見なすべきかを知るためです。もしもあなたが神様の御言葉を聴いてそれを信じる恵みをいただき、人でもあられるイエス・キリストを受け入れたのであれば、神様はあなたを御子のもとへと引き寄せ、御子に委ねておられるのです。ですから、イエス様はあなたを強く慕っておられ、あなたを大喜びで受け入れてくださることを知りなさい。
[1] 黄金の年とは、宗教改革時代以前にさかのぼる、カトリック教会の教皇が定めた罪の赦免の年である。その年にローマ詣でをする者はこの特典を受けることができた。1300、1350、1390、1423、1450、1475、1500、1525年。