2023年11月29日水曜日

「力なき者に力を」「詩篇」41篇5節「イエス様は癒してくださいます」

「イエス様は癒してくださいます」 

「主よ、私を憐れんでください。私の魂を癒してください。

私はあなたに対して罪を犯しましたから」と私は告白しました。

(「詩篇」415節)

 

先祖代々受け継がれてきた原罪は

私たち人間一人一人の内に染み付いています。

それは私たちが生まれた時からずっと私たちの中に潜んでいます。

 

「善を行い罪を犯さない義しい人はこの地上にはいません。」

(「コヘレトの言葉」720節)

 

聖書は私たち人間がどのような存在かについて次のように証ししています。

 

「頭はすっかり病んでおり、心は全く弱り果てています。

足の裏から頭にいたるまで傷のないところがなく、

傷と打ち傷と生傷ばかりです。」

(「イザヤ書」156節より)

 

罪の病は、

恥知らずな罪の生活、不信仰、神様の御言葉に対する侮辱、偶像礼拝

として表面化します。

神様は人々から捨てられ、侮られます。


人間の内側からは

快楽の追求、強欲、汚れ、姦淫、怒り、復讐心、呪う心などが

あふれてくるばかりです。


癒してくださるお方がいなければ、これらすべては死を生み落とします。

人間の助けは何の役にも立ちません。

私たちの主イエス様だけが癒してくださるお方なのです。

 

イエス様の御許に行って

「主よ、私を憐れんでください。

私の魂を癒してください」

と告白しましょう。

イエス様は癒してくださいます。

 

「このお方の傷によって私たちは癒されたのです。」

(「イザヤ書」535節より)

 

このお方は私たちの心を信仰によってきれいにしてくださいます。

イエス様は私たちの良心にその血を振りかけて清め、

和、喜び、希望、新しい命を賜ります。


私たちはこのお薬をこの世での人生が終わるまで

毎日のように定期的に服用するべきなのです。

 

「主イエス様を信じなさい。

そうして、あなたもあなたの家族も救われることになります。」

(「使徒言行録」1631節)

  

(祈り)私の魂を癒してください。

私はあなたに対して罪を犯しましたから。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」9913

2023年11月22日水曜日

「力なき者に力を」「詩篇」51篇5節「自らの罪を知りなさい」

「自らの罪を知りなさい」

私は自らの罪過を知っています。

私の罪はいつも私の前にあります。

(「詩篇」515節)

 

「私はもういなくなったも同然だ!」

とある男の人がすっかり気落ちした様子で嘆きました。

それを聴いた助言者は「そうなんですか。神様に感謝します!」と答えました。

「どうしてそんなことを言うんですか?」とその人は聞き返しました。

それに対して

「人の子はいなくなったものを探して救うためにこの世に来られたからです」

という答えが返って来ました。

 

救い主の大いなる愛と恵みを見られるようになる前に、

私たちはまず自らの罪の大きさを見つめなければなりません。

 

ダヴィデは自らの罪を見つめることを学びました。

「私は自らの罪過を知っています。

私の罪はいつも私の前にあります」

と彼は嘆きました。

自らの悪い行いの罰から逃れるために、彼は神様に祈るほかなかったのです。

 

私たちの罪も重苦しいほど大きいものです。

神様は私たちが罪深さを自覚して告白するようになさいます。

 

私たちは、

自らの罪の重荷が取り除けられて、

イエス・キリストがそれを代わりに担ってくださっていることを

神様に感謝いたします。


イエス様が私たちの罪を底知れぬ赦しの海の底へ沈められたので、

それらが再び浮上して私たちを責め立てることはもうできなくなりました。

 

「御子を信じる者は裁かれない」と神様はきっぱり言い切っておられます。

イエス様の御業のおかげで、

神様は私たちの罪をもはや思い起こすことがなくなりました。

イエス様の血が私たちをあらゆる罪から清めてくださるからです。

私たちが今できることは、

言葉に言い表せないこの恵みを感謝しつつイエス様を賛美することだけです。

 

(祈り)主よ、あなたに感謝します。

あなたは私にお怒りになりましたが、

それを鎮めて私を慰めてくださったからです。

アーメン。

(関連聖句)「詩篇」51112

2023年11月10日金曜日

「力なき者に力を」「ガラテアの信徒への手紙」6章7節「堕落か、祝福か」

「堕落か、祝福か」

惑わされてはいけません。

神様は侮られるような方ではありません。

人は自分の蒔いたものを刈り取ることになるからです。

(「ガラテアの信徒への手紙」67節)  

 

この法則を別の法則に変更することはできません。

人は皆、蒔いた物を刈り取ることになるのです。

 

私たちの生活もこれと同じです。

自分が考えること、言うこと、行うことが「蒔かれる種」にあたります。

そして、それに応じた「実」を刈り取ることになります。


悪い考えは悪い行いを生みます。

口に出してしまった言葉はもう引っ込めることができません。

悪い言葉は悪い実を結びます。

肉の欲望に従って生きるとき「堕落」という実を刈り取ることになります。

 

それに対し、よい種はよい実を結びます。

神様の御言葉の活きた種が蒔かれると「永遠の命」という実を結びます。


それと同様に、人間の話す言葉も、よく言われるように、

金のリンゴのようなものにもなりえるのです。

葉によって私たちは、隣り人たちを癒したり傷つけたりします。

言葉は悲しみも生むけれど、涙をぬぐってもくれます。

 

「私は主なる神様の語られることを聴きたいのです。

主はその民、その聖徒に平和を語られるからです」(「詩篇」859節より)

という主の御言葉にしたがって自らの生き方を正していきましょう。

それによって私たちは平和と命の言葉を

隣り人たちに伝えることができるようになります。


キリストへの信仰の中で新たにされる時、私たちはよい種を蒔きます。

いつしかその種から善い実を刈り取ることができるようになり、

それを通して、神様は栄光をお受けになるのです。

 

(祈り)

この世で無益なことのために蒔いた種は

時が経つと消え失せてしまいます。

しかしたとえ他のすべてが消えても、主の平和だけはなくなりません。

そして、この賜物を求める者は永遠の宝を手に入れるのです。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」12638