2021年8月20日金曜日

「力なき者に力を」「マルコによる福音書」16章19節「キリストの支配」

「キリストの支配」

主イエス様は彼らに語り終ってから、天にあげられ、神様の右に座られました。 

(「マルコによる福音書」1619節)

 

「神様の右に座る」というのはどういう意味でしょうか。

イエス様御自身が予言してこう言っておられます、

「人の子は今からのち、力ある神様の右に座するでしょう」

(「ルカによる福音書」2269節)。

この比喩的な表現をルターは巧みに説明しています。

「「私の右側に」(「詩篇」1101節より)という言葉は

イエス様が父なる神様と対等なお方であることを表しています。

というのは、

イエス様が座られている場所は神様の上でも足元でもなく、

イエス様と同等のお方、父なる神様の右側だからです。

それゆえ、

天はイエス様の玉座であり、地はイエス様の足台なのです

(「使徒言行録」749節より)。

イエス様が言われている通りに

「私には、天においても地においても、すべての権威が与えられています」

(「マタイによる福音書」2818節より)ということです」(ルター)。

 

すべてを支配なさっているこのような全能の救い主がおられるのですから、

私たちは何も恐れを抱く必要がありません。

救い主はあなたの世話をしてくださいます。

怖がったり、慌てたりしないようにしなさい。

救い主はあらゆる悪から救い出してくださいます。

イエス様はあらゆる悪の攻撃を阻止してくださいます。

あなたが死ぬ時がきたら、

イエス様はあなたをこの嘆きの谷から天国へと引き取ってくださいます。

そうして、あなたもイエス様がおられるところにいるようになるのです。

それなのに、

あなたはどうして悲嘆したり心を騒がせたりしているのですか。

 

(祈り)どうか今、私の信仰を強め、私の希望を支えてください。

旅人の私をあなたが導いて運んでくださらなければ、私にはもう力がないのです。

あなたの恵みによってのみ、私はその希望の地、喜びの地を見ることができます。

アーメン。

(関連聖句)「エフェソの信徒への手紙」11523

 

2021年8月17日火曜日

「力なき者に力を」「列王記上」19章4節「疲れた人に力を」

 「疲れた人に力を」

エリヤは一日分の道のりほど荒野に入って行き、

ハリエニシダの木の下に座し、

自分の魂に死を求めて言いました、

「主よ、もう十分です。

私の命をお取りください。

私は父祖たちにまさる者ではありません」。

(「列王記上」194節)

 

エリヤはすっかり疲れ果ててしまい、

働き続けようとしてもその力がもう残っていませんでした。

仕事で疲れること自体はよいのですが、

仕事にうんざりしてしまうのは危ないことです。

 

肉体や精神を行使する労働は有益ですし、神様の御心にも適っています。

イエス様も働き疲れたときには休息なさいました。

そして弟子たちを閑散とした場所に連れて行って休ませてくださいました。

イエス様は働き疲れた人々を休ませるために御許に招かれるのです。

 

時として私たちは預言者エリヤのように

自分自身の仕事や人生に飽き飽きしてしまうことがあります。

生活の心配を抱えた父親や母親も、

それと同じような思いをすることがあるでしょう。

牧師や教師も、困難な状況の中でいろいろとうまく行かずに、

やる気を失う場合があるでしょう。

若者の場合には、人生の重圧という試練にあうことがあるかもしれません。

 

しかし今、私たちは

この世のハリエニシダの木の下に座っているだけではいけません。

ゴルゴタの十字架のもとで憩うべきなのです。

イエス様に十字架の死に至る苦しみを肩代わりさせたのは私たちです。

イエス様は私たちのために疲労なさったのです。

しかし、イエス様は贖いの御業に倦むことがありませんでした。

イエス様はそれを終わりまで成し遂げられ、

その成果として私たちに永遠の救いを用意してくださったのです。

聖霊様はこう言われます、

「あなたがたは魂が疲れて弱り果ててしまわないために、

御自分に対する罪人たちのこのような反抗を耐え忍んでくださった方のことを

思いみるべきです」(「ヘブライの信徒への手紙」123節)。

イエス様は疲れた人々に力を与えてくださいます。

 

(祈り)イエス様、私が疲れきって希望を失ったりしないように、

あなたのなかで休むことを覚えさせてください。アーメン。

(関連聖句)「列王記上」1918