2019年11月27日水曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」22章21節より「国旗と十字架」

「国旗と十字架」

それでは、皇帝のものは皇帝に、神様のものは神様に返しなさい。
(「マタイによる福音書」2221節より)

どの国民も彼らが同じグループに所属していることを表す目印をもっています。
祖国を愛する者にとって国旗とは国と国民、独立と自由を代表する目印です。
また国旗は祖国のために払われた犠牲と労苦を思い起こさせます。

たとえば、北欧諸国の国旗には十字架が印されています。
もともとこの印は
キリストの十字架における贖いの御業を証する国民たろうとする
北欧の人々の意思の表明でした。

このように国旗には深い意味があります。
しかし、十字架の意味はさらに深いものです。
祖国のために自らの命を投げ出した人々のことを覚えるとき、
私たちの心は感謝の念で満たされます。
私たちにも祖国の繁栄を見守り、そのために自らを犠牲にする覚悟があります。
それと同じように、
十字架は神様の御子が十字架の上で流された聖なる血、苦難と死によって
全人類が贖われたことを私たちに思い起こさせます。
十字架はイエス様の御国の目印です。
十字架は私たちを暗闇の諸力との戦いのために集結させ、
より大胆に信じるよう、より熱く愛するよう、より我慢強く奉仕するように
助けてくれます。

祖国の裏切り者を私たちは憎みます。
私たちも天の祖国を裏切ったりしないように、
神様の御国がこの世で進展していくのを妨げたり難しくしたりしないように
我が身を正していきましょう。

(祈り)主よ、私たちの祖国の自由を守り、国民に祝福をお与えください。
あなたの恵みを国と国民の心とに降り注いでください。アーメン。
(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」1317

2019年11月20日水曜日

「力なき者に力を」「箴言」1章10節「悪い友」

「悪い友」

わが子よ、罪を行う者があなたを勧誘しても、それに従ってはなりません。
(「箴言」110節)

良い友もいれば悪い友もいます。
良い友は正しい道を歩む助けとなり、悪い友は間違った道に引き込みます。

ダヴィデ王の息子アムノンには悪い友がいました。
彼はアムノンが罪を犯すようにそそのかし、その罪は死をもたらしました
(「サムエル記下」13章)。

破滅の道に導く友がいます。

特に若者は、
自分をだめにするような悪い友人関係に巻き込まれる危険があります。
罪を犯すように誘惑され、
それに従ってしまうのです。

キリスト信仰者としての教育を家庭で受けた人にとっても、
悪い友人関係にすっかり魅了されてしまう場合があります。

人はそれに巻き込まれると、
良心が汚されて罪悪感を覚えます。
その人を愛している家族や友人は悲しみ、
その人自身も後悔の念に苛まれます。
神様の怒り、さらには永遠の地獄での苦しみがその人を待ち受けています。

どのような人と付き合うか、よく注意しましょう。
友情の真価は、
その友が天国への旅を助けてくれるかどうかによって
正しく評価することができます。

しかしまず何よりも、
イエス様と近しい関係を保って生きていきましょう。
正しいことをしっかり守って悪いことに反対する力を
イエス様は与えてくださいます。
イエス様の友情を失わないようにしましょう。
「もしも私が命じることをあなたがたが行うならば、あなたがたは私の友です」
また「私はあなたがたのことを友と呼びました」
とイエス様は言っておられます
(「ヨハネによる福音書」151415節)。

イエス様は父なる神様の大いなる御心を私たちに啓示してくださいました。
イエス様への信仰を通して罪深い者は救われるのです。

(祈り)主よ、
清い心であなたに救いを叫び求める人々と共に
義と信仰と愛と平和を実践していけるように、
どうか私たちをお助けください。
(関連聖句)「ルカによる福音書」225462

2019年11月13日水曜日

「力なき者に力を」「サムエル記上」18章1節「旅の友」

「旅の友」

ダヴィデがサウルに語り終えたとき、
ヨナタンの魂はダヴィデの魂に結びつき、
ヨナタンは自分の魂のようにダヴィデを愛しました。
(「サムエル記上」181節)

それは忘れがたい友情でした。
多くの絆が二人の若者を結び付けました。
一番強い絆は、神様への一致した信仰でした。
この信仰は彼らの友情を聖なるものとし、美しく飾りました。
神様の子どもとして彼らは互いに支え合い、共に信仰の道を歩みました。

イエス様は私たちの最高の友です。
私たちのために命を捨てた友、実の兄弟姉妹よりも忠実な友です。

人は、旅の途中で道連れが欲しいと思うものです。
イエス様を知っていて愛しており天の御国への旅をしている人を
友として選びましょう。
信仰について語り合うことができて試練の時には支えてくれる友が
私たちには必要です。
天の御国への旅を妨げるのではなく、励ましてくれる友が
必要なのです。

このような友がいる人は幸せです。
しかし、もしも私が本当にそのような友を望むなら、
まず私が相手に対してそのような友でなければなりません。
はたして私はそのような者でしょうか。

(祈り)
主イエス様、
天の御国への旅を助けてくれる友を私にお与えください。
私自身も他の人々に対してそのような者となれるようにお助けください。
救い主よ、
私の聖なる兄であり友であられるあなたに
いつでも頼り切ることができるように私をお助けください。
アーメン。
(関連聖句)「ヨハネによる福音書」151217

2019年11月5日火曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの黙示録」7章9節より「玉座の御前で」

「玉座の御前で」

見なさい、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、
誰も数え切れないほどの大勢の群集が白い衣を身にまとい、
棕櫚の枝を手に持って、御座と小羊との御前に立っています。
(「ヨハネの黙示録」79節より)

昔の時代には
王族に個人的に謁見したり王宮に住めたりすることは大変名誉なことでした。

主によってあがなわれた人々は天の御国でまさにこのような光栄に浴します。
彼らは「王の中の王」の御前にずっと居続けるのです。
彼らは立っています。
もう何も覆い隠したり恐れたりする必要がないからです。
彼らはすっかり心を開いて清々しく立っています。
神の小羊がそれを望んでおられることを知っているからです。

旧約聖書の預言者イザヤはかつて主の栄光を目にしたときに
「ああ、なんということだ。私は声を失う。
私は汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住んでいるのに、
私の目が万軍の主なる王を見たのだから」
(「イザヤ書」65節)と叫びました。

しかし、神の小羊が世の罪を取り除いてくださったので、
もう何も恐れる必要はなくなりました。
私たちは神の小羊を面と向かって見つめることができるのです。

ついに順番が回ってきて、
時間の存在するこの世界の外側すなわち永遠の世へと私たちが移される時に
「私たちは天の御国に入れていただいた。
自分の衣を洗って、小羊の血で純白にしていただいた」
と言えることほど素晴らしい言葉は他にありません。

残るは次の質問だけです。
「いつか順番が回ってきて、あなたが墓に安らかに横たわる時に、
あなたもまた上と同じように言えますか」
という質問です。

(祈り)主よ、
私たちが信仰を保って「命の道」を歩むことができるように、お助けください。
私がこの世を去る時、
あなたの御傷のゆえに私を天の御国の聖徒の群れに加えていただけますように、
どうかお助けください。アーメン。
(関連聖句)「ヨハネの黙示録」71317